間、こそ極意!

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青空禅フォーラムというだけあって、

青空禅の時には、毎回一番最初にリラックスのための瞑想をします。

呼吸がゆったりしてくるような音楽をBGMに、

伊東先生がゆっくりと言葉でリードしてくれて、

言われたそこに意識を向けながら呼吸します。

ただそれだけ。

 

でも、外から慌ててプロトマニアに到着して席に座ったり、

初めてひとりで参加するからちょっと緊張、とか、

始まるまでのおしゃべりが楽しくて心が外へ向かっているとか、

そういう、良くも悪くもガサガサざわざわした自分の状態が、

瞑想とともに静かになって、集中力が上がって来ます。

 

集中力とはつまり、

今、

この目の前にあること、

聞こえることに、

集中、ってこと。

 

 

難しいことではありません。

忙しい私たちは、こんな簡単なことができない毎日だったりします。

いつでも心は未来へ過去へ、そして空想の世界へとウロウロ落ち着きがありません。

でも、ほんの3つだけ、吸って吐く、の呼吸をする間、

その呼吸を見つめるだけで、間が空きます。

この「間」こそが、たいせつ。

 

え? 間ってそんなのいつでも作れるし、作ってるし、

って思うかもしれませんが、

この「間」の秘めたる無尽蔵のパワー、知ったらもう無敵かも(笑)。

 

そんな話が出るかどうかは知りませんが、

今週、水曜日の祝日は、伊東先生の、

『青空禅 1 Day ワークショップ マインドフルネス瞑想〜入門から極意まで』

にぜひ来てみてくださいね。

 

禅、ZEN 、

青空禅を20年近く開いて来た伊東先生の知識の幅広さと軽やかさ。

ちょっとお茶目で、おだやか〜でしずか〜でふつ〜。

 

…ふつ〜。

フツウ、って実にホントにすごいことです。

ぜひご一緒に。

 

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*伊東充隆主宰 青空禅  1Day ワークショップ

「マインドフルネス瞑想 入門と極意」

〜穏やかなこころ、明晰性、理由のない幸せ〜

お申し込みは こちらから  →

 

 

 

変わらずにあるもの。

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もうすぐ東京国立博物館で「禅 ZEN ー心をかたちにー」という展覧会が、

始まります。

江戸時代の禅師、白隠慧鶴が亡くなって250年だそうです。

 

白隠は、書画をたくさん描いて民衆に真理を伝えようとしたと言われています。

迫力ある達磨の絵は、一度は見たことがあるのではないでしょうか?

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「衆生本来仏なり」

すべてのひとは既に悟っている。

 

と言ったひとです。

 

最近は、瞑想がブームのようですが、

昔からあるものだから、友だちのおじいちゃんは毎朝、座禅していたし、

社長さんもお坊さんも裁判長もバレエの先生も幼稚園生も、

たまたま環境にそれがある人は習慣的にやっている。

 

ブームではあるけれど、「瞑想」という名称からは、

怪しい!と印象を持つ人はまだ多いそうです。

座禅と言ったら抵抗は半減するのかな?

ヨガも、オウム真理教の事件があった頃は、

怪しさいっぱい(笑)変な目で見られたけど、

今はオシャレで、ヨガインストラクターはドンドコ増えているそうです。

 

ZEN も瞑想も座禅も非二元も悟りも、ずっとある。

人の心や考えは移ろい流れていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無心

青空禅

 

花無心招蝶  花は蝶を招くに心無く
蝶無心尋花  蝶は花を尋ぬるに心無し。
花開時蝶来  花開く時 蝶来たり
蝶来時花開  蝶来る時 花開く。
吾亦不知人  吾も亦 人を知らず
人亦不知吾  人も亦 吾を知らず。
不知従帝則  知らずとも 帝則に従う。

 

 

これは良寛さん。

 

 

花開く時 蝶来り

蝶来る時 花開く

 

 

青空禅の伊東先生に聞いた禅のことば、

 

啐啄同時(そつたくどうじ) 

 

 

 

ただ、ひたすらに。

 

摩訶般若

秋の記憶。

楽しいこと、切ないこと、嬉しいこと、痛かったこと…

それは記憶であって、今は何もない。

純粋すらない、源の純粋意識。

 

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私どもは毎日新しいものを食べ、新しい空気を吸い、新しい水を飲みます。

毎日新しいものを取り入れて、古い不用なものを排泄し、新陳代謝をし、

水の如くに流れていく。その流れていくのが、お互いの血液であり、

お互いの肉体でありますが、これは休みなしに流れておる。

それならば、毎日新しいことを考えて、すんだならばいらんことはサッサと流して、

後に何も残さないというのが、お互いの健全な意識というものではなくてはならないでしょう。

そこに子供の時分に教え込まれた、「これが私」「これが花子」ということが

焼き印のように押しつけられておって、どうしてもそれから離れることができない。

寝ておっても、名前を呼ばれればすぐに目を覚ましてしまう。それほどまでに、

私どもは自我という、生まれ出てから教えられた意識にこだわってしまって、

身動きのできん今日のお互いになってしまっておるのであります。

しかし、健全な意識はそういう滞るものが何もなしに、サラサラと流れ、

いつも新しい新鮮な意識で日暮らしができることが私ども健康な意識でなくては

なりません。それが般若の智慧であります。

鏡はどんな小さなものでも、富士山のような大きなものでも映すことができます。

何で富士山のようなものが鏡の中に入るのか。何で太平洋が鏡の中に映ってしまうのか。

このアズキよりも小さな瞳孔を通して、私どもの意識に入る。太平洋が入る。

空を見上げるならば、二千万あるといわれる星が、皆な私の小さな目の中に入って

しまう。摩訶般若であります。何もかも入れる余地がある。

 

『般若心経』第一講 山田無文著 禅文化研究所  発行 より抜粋

 

 

ことばの真実

 

 

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コーキーーー!

 

と後ろから呼ぶ声。

振り返るふたり。

 

あ、おはよう、えりかちゃん。

早いね〜

 

うん、コーキが見えたから走って来た。

 

 

 

応じた子どもの声は、やわらかくてゆっくりのんびりしていて、

落ち着いた静かな口調。

ことばのひとつひとつが、くくられて、目に見えるようでした。

 

ゆっくりふぅっと空間に浮かんで、すぅっと消えて無くなったことば。

 

 

「私」を正しく扱う

 

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仏の 〈 道 〉 において修業するとは、あなた自身の「私」を正しく扱う修業をすることに他ならない。

あなた自身の「私」を正しく扱う修業とは、あなた自身の「私」を忘れることに他ならない。

あなた自身の「私」を忘れることとは、「外部」の物にあなたが照らされることを意味する。

物に照らされるということは、あなた自身の(いわゆる)自我と、

他の物の(いわゆる)自我との間の区別を抹消することを意味する。

 

道元禅師 「正法眼蔵」より