生命の静かな躍動

 

 

 

 

応えはいつでもすべて、

 

 

 

 

 

 

内側にある。

 

 

 

 

*先生はいません、ハートを頼みに自分で確かめよう〜

空のお茶会〜バーソロミューと共に。

5月21日(日) 14時頃から16時頃まで

参加費は2000円(お茶とおやつ付き)

 

日々のあれこれ

 

買い物に行って、レジの列に並んでいたら、前の女性が「先にどうぞ」。

 

私の買うものが1つだけだったのを見て、順番を譲ってくれた。

 

 

全然、急いでないからどうぞ

 

急いで生きてないんで

 

 

サバサバした感じでそう言う。

 

 

ありがとうございます、とペコリと頭を下げて、お互いに微笑む。

 

 

急いで生きていないんだって。

 

 

いいねぇ、ふつうの日々って。

 

 

 

 

 

 

知っているけど忘れていた穏やかさ、かも。

伊東充隆主宰和サンガ・青空禅フォーラム

 

自己の本質を知るということ、それを知識にとどめずにリアルにすること、つまりそこに意識の軸を変換させることと言うと、すごく難しそうな話に聞こえますか。

たしかに難しい〜と思う時もあるのですよ。

でもいろいろな本を読んだり、教えてくれる方たちのお話を聴いたりしながら、例えば青空禅や和サンガで伊東先生から伝えられたコツを実際にやっていくと「それは難しいことだ」という重い思いはいつのまにか消えていきます。

「難しいに違いない」という思い込みが「いえいえ、実はこんなに簡単なのよ〜」になるというよりは、『難しいこと』の影が薄くなる感じ。そんなことがあまり気にならない。

 

すごく気になっていたことが気にならなくなったり、ふつうにまぁまぁ気になる、くらいになると、それだけでとても気楽ですね。

気になることは多々あったとしても、それはそれでよくなっていて、すごーく気になる時もあるしちょっと気になる時もある。でもそのこと自体がそれほど気にならない。

 

不変なるものをただ見ていくことで出会う穏やかさや軽さというのは、これまで体験した穏やかさや軽さ、その言葉からイメージしていた感覚とは、実はちょっと違うのかもしれません。だから「これではない」と勝手に判断して、うっかり見過ごしているのかもしれませんね。

 

初めてでもなく自然。もっともっと穏やかで(笑)繊細な  …  。

 

真我

*自己の本質を知り、意識の軸を変容する〜

伊東充隆主宰  青空禅フォーラム  Tokyo

次回開催は4月予定です。

日程が決まり次第お知らせいたします。お楽しみに!

 

和サンガ   東京3期(6ヶ月コース)開催中

次回の募集は初夏の予定です。

和サンガについてはこちらから→

 

 

*空のお茶会〜『バーソロミュー』を読む

2月25日(土)14時ごろから16時ごろまで。

真我を伝えるバーソロミューを音読したり、その感想や疑問を話しながら自由におしゃべり。

美味しいお茶をゆっくり楽しみながら、非日常プチトリップのお茶会です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ラマナ・マハルシの教え

真我

 

質問者

あなたはときおり、真我は沈黙であると語っています。なぜでしょうか?

 

マハルシ

真我のなかで無心の美しさを生きる者にとって、考えるべきことは何ひとつない。なぜなら、その至高の状態のなかでは、真我以外に達成されるようなものは何も存在しないからだ。

 

 

 

「あるがままに  ラマナ・マハルシの教え」 第1章 真我の本性

 

 

 

 

質問者

あなたは在ることについて語っています。何として在ることでしょうか?

 

マハルシ

あなたの務めはただ在ることであり、あれやこれやとして在ることではない。「私は私であるものである」( I AM THAT I AM)という言葉がすべての真理の要諦である。その方法は、「静かに在ること」に尽きる。では静寂とは何を意味するのだろうか? それはあなた自身を打ち壊すことを意味する。なぜならすべての名前と形が苦しみの原因だからだ。「私はこれである」という観念を放棄しなさい。真我を実現するために必要なのは、静かに在ることだけである。それ以上簡単なことがあるだろうか? それゆえ、アートマ・ヴィディヤー(真我の知識)の達成は最も容易なことなのである。

唯一、自己の真の本性だけが、調べられ、知られる価値のあるものである。それを注意の的として射止め、ハートのなかで強烈にそれを知るべきである。この自己の本性の知識は、苛立ち苦しむ心の活動から解放された、明晰で平静な意識にのみ明らかにされるだろう。ハートのなかで絶えず輝き続ける意識こそが無形の真我であり、存在や非存在である何か、などと考えることなく、ただ静かに在ることによって知られるもの、ただそれだけが完全な実在であると知りなさい。

 

 

「あるがままに   ラマナ・マハルシの教え」 第5章 真我探究ー実践より

 

 

ここにあるもの。

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朝の散歩で見つけた幸運のブタくん。

 

毎朝、散歩をします。

最近は朝の用事が増えてしまって、優雅な散歩ではありません。

でも、少しだけでも外に出るのが気持ち良いから、10分でも歩きます。

 

 

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幸い、近所に大きな公園があるので、蝉の大合唱を聴きながらてくてく歩く。

草の上を歩く時の足の裏の感触は、気持ちよいです。

 

 

 

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そして相変わらず、空を見上げては写真を撮ったりします。

 

 

 

こうしたことは、もうずいぶん以前から同じような事をしている気がします。

それがもっと早朝になったり、相棒犬が一緒にいたりいなかったりしながら。

見る、聴く、歩く、食べる、話す…ということは、

ずっと同じ事をしている、とも言える、と思ったりもします。

 

習慣やパターンに見える何かも、本当はたった今初めて起きている。

昔からこうだった、このパターンにとらわれている、

と思考がすぐに枠に入れてしまうけど、それは思考だから。

 

昔から何度も繰り返したことも、同じパターンもそんなものは実は無くて、

今、立ち止まってここにあるものが本当は何かを、素直に無邪気に見る。

 

そこにあるのは瞬間性だけ。

 

それがなかなか、見抜けない。笑っちゃうくらい(笑)。

 

でも、それはとても自由です。

 

 

 

違和感と微笑み

沈黙

 

違和感は、居心地悪くて不快なばかりじゃない。

それは、とっかかりだから。

 

辻褄が合わない、どうしよう!

 

でも慌てず。

 

なんとか理由を見つけて整合させよう!

 

それは一連のクセ。

 

少しだけ放っておく。

 

丁寧にゆっくり見てみたら、

あ!こんなことに気づいた!

でもなく、

あ、分かった!

でもなく、

その先には、ただ微笑み。

言葉は過去。

 

ほほえみ。

 

 

わたし、とは何か?

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わたし、ってなんだろう?

 

いつ 「 わ た し 」 ってことばを知ったんだろう?

誰が 「 わ た し 」 ってことを教えてくれたんだろう?

この世に「 わ た し 」ってものがあると言ったのは誰だろう?

お父さんとお母さん?

ではそのお父さんとお母さんに教えたのは誰?で、

そのまた誰かはどこでいつ誰に教えられて…

いったい元の元は……?????

 

 

そもそも、「 わ た し 」ってなんのこと?

「 わ た し 」って、どれ? 何の意味?

 

私 は、 「わたし」と読み、「わたし」と発音します。

それは何を指しているのかな?

そもそも、いつからだれが、

この世界(があるとすれば)に「わたし」があるって言ったのかな?

 

そもそも、何を指して、

どれのことをその「わたし」という名称で表してきたのかな?

当り前のように。

いつから当り前だと思い込んでいるんだろう。

 

 

本当に本当に考えてみて、

それ、つまり「わたし」とは何かを、

本当に知っているのでしょうか?

 

 

私とはどこにあるのか? を、

いろいろなアングルから、その場で検証します。

伊東充隆先生の 11月の青空禅フォーラム は、

11月23日(月祝) 14時から16時

です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無分別にすべてがある

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世界は「愛」… 

 

アラカワさんは愛が好きだからね…とまた笑われちゃいそうですが、

だって愛に恋しているんだもの 〜  ♪

 

愛って何かというと、本質で、真我で、それの状態。

 

 

この世界には憎い感情も愛する感情も、平和も抗争も、

慈しみも蔑みも、誠実も裏切りも、怒りも悲しみも常にあります。

穏やかで優しくて思いやりに溢れる愛情、喜び、受容、救いがある一方で、

悲惨、残虐、理不尽、不平等、嘆きは絶えることがありません。

 

ふと考えたら、それらすべてが在ることをゆるしている。

何も分けること無く、別れることもなく、すべてがある。

すべてを無分別に在るようにしている状態を、愛 と名付けてみる。

 

良い、優しい、だけなら平和そうなのに、

ずるい、酷い、まであるなんて! (すごっ!!)

 

でも、こういうジャッジや言葉や概念の無い、在る、それが本質。

だから、語ることができない。

沈黙。

 

 

なるほど、世界は愛の状態。

ちょっと思いついた。

もしかしたら、いわゆる母なる愛、父なる愛、は、

この「愛」のダイジェスト版なのかもしれませんね。

親は、どんなに「悪子ども」でも「おりこうさん子ども」でも、

決して見捨てることはなく、ただいることを受け容れて、

ただそこに子どもが生きているだけで、それでいい。

大きくて深くて静かにそこにいる(在る)。

お母さん、お父さん、既に、それ、そのものなのかもしれませんよ。

そして、たとえどんな「ワル母」でも「ダメ父」でも、

子どもは親を求める。

だから、

子ども、それもまた、それ、そのものなのかもね。

だからすべては愛の状態。

 

もう見た夢をもう一度見ているだけ、とは、こういうことかもね。

 

あってもよし、なくてもよし

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いろんなことが起きては去って行きます。

 

嬉しいことも、グスンとなることも、カチンと来ることも、

みんな同じところからやって来て、去って行く。

ふわっと現れて、消えて行く。

 

あってもよし、なくてもよし。