いまこの瞬間にある平安

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それぞれの瞬間に現れる自分自身というものに素直で正直であり、自然でありのままであるためには、このワークショップの第一日目に学んだことに戻る必要があります。つまり、人の顔を眺めたり、ほかの人が何を考えているのだろうかと想像したりするのではなく、自分の肉体のなかに意識を据えている必要があるということです。人と無意識に交わす会話は、自分のなかのほかの部分と無意識に交わしている内なる会話を反映しているのです。自分の外側に見えるものなら、自分の内側に見つけることができます。あなたは自分自身と会話をしているわけです。ですから、話すのをやめて、自分の内側を見ることを始めてください。

 

心の平安を得るには、自分がいま感じていることに気づくことです。これまで人生のつらいときやイヤなときがあまりに多かったので、自分がいま何を考えているのか、いま何を感じているのかが、よくわからない人がたくさんいます。もっともそうは言っても、あなた方はもともと、人生を50パーセントしか生きていませんものね。

 

全体性を取り戻すのは、気づきを通してです。自分はいま何を感じているのか、いま何を言っているのか、いま何を考えているのか、いま足はどんな状態なのか、いま呼吸はどんな状態か   自分の体のなかに意識を向けていてください。注意を払ってください。自分に責任を持ってください。自分のなかをいのちがとうとうと流れていくのを、感じるだけでいいのです。それだけでいいのです。瞬間瞬間、そうしていくだけです。それが人生を完全に生きる、いまに生きるということです。

 

「正しい」生き方をする、などということには心をわずらわせなくていいのです。誰もけっして「正しい」生き方などできないのです。どんな生き方をしても、かならず誰かがあなたを批判するでしょう。世間から百パーセント受け入れられるということは、ありえないのです。ですから、そんな努力はやめましょう。自分自身を受け入れると、人はリラックスします。そしてリラックスすると、”神意識”つまり、“大いなる光”が動きはじめます。そうなると、それを感じることができます。ですから、何よりも自分自身を受け入れることです。それで充分なのです。

 

『バーソロミュー』より抜粋

 

 

 

 

 

 

マティスと青空〜

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秋は空がきれいですね。

色がぱっきり。

今度の日曜日、11月22日のプロトマニアは、

中尾陽一さんの「これまで誰も教えてくれなかった〜絵画観賞入門講座」です。

今回はマティスがテーマ。

マティスは鮮やかな色彩が印象的ですね。

マティスはデッサンも素晴らしいと思います。

線で描くデッサン。

線とは包み隠すことない、ギリギリの表現かな。

さて,中尾先生のマティス、どんな角度からどんな風に浮かび上がるでしょうか。

中尾先生の引き出しにはいっぱいのマティスが詰まっていますよ〜

 

レクチャーの定員はアバウトなので(笑)、当日参加も大歓迎です。

楽しく主体的に美術に触れる中尾流、ぜひ一度体験してみてくださいね。

 

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そして23日(月祝)は、伊東充隆先生の「青空禅フォーラム」です。

11月からは隔月開催になりました。

何を伝えて何をしているかということはプロトマニアの青空禅のコーナー

先生のウェブサイトで、そしてプロトマニアのフェイスブックのアルバムでは、

その雰囲気をご覧くださいね。

 

私は青空禅に参加して早くも7年くらいになりました(ビックリ!)

青空禅に出会うまでは、真我とか非二元という言葉は知らなかったし、

悟りを求めているつもりはなく、哲学っぽく探究(しているつもり)の旅。

今思えば自分が本当に何を求めているのか、

実のところわかっていない、混沌とした『真理の探究』でした。

 

青空禅に通いましたが、伊東先生の言葉が通じるように(笑)なったのは、

実はごく最近かもしれません。

つまりずーーーーーっと、

「わかった(つもり)、わかっているわよ、ちゃんとわかってるはずなのよ」

なフィルターがかかった状態だったのだと思います。(モッタイナイこと!)

 

 

伊東先生の素晴らしいところは、ひとりひとりの質問や発言を聴いて、

こんがらがっているところをその場で(ここがだいじ!)一緒に解きながら、

その人自身で気づくように、丁寧に方向を指し示してくれるところ。

 

生徒は勝手なもので、わからないとちょっとムッとしたり、イラっとしたり、

ナニ言ッテンダイ!と先生を疑ったり(苦笑)、

スネたりしちゃうんですが(ぷんぷん)、

そんな生徒にも伊東先生は実に根気づよく、誠実です。

そしてある時、「あぁ、伊東先生が言っていたのはこういうことだったのか」と

ハッとしてひとり赤面したりします。(体験より)

先生って大変〜〜〜(先生ごめんなさ〜い〜〜〜)

 

伊東先生はコツコツと、淡々と情熱的に、

何かのご縁で袖触れ合った人たちを、真理の扉の前へとガイドしてくれますよ。

非二元や気づき、真我、仏性、色即是空空即是色…、などなどの言葉と出会って、

それ知りたいな、と思ったらぜひ青空禅のドアを叩いてみて下さいね!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

悲しみよ、こんにちわ

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悲しみを「怒り 」にすり替えていた。

 

悲しかったんだなぁ。

本当は悲しかったのにね。

悲しかったね。

 

悲しみを悲しみとして感じることは、とても大切だったのだなぁと思います。

 

悲しみは美しい。

慈悲、慈愛。

悲しみよ、こんにちわ、です。

 

100%の真実

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今、この瞬間にあるもの。

100%、リアルなものは何?

人に頼らず、不変であると認められるものは何?

理屈や信念を頼みにするのではなく、

いつでも変わらず信頼がおけるものは何?

 

 

 

静かに見つめる

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春の雪。

4月に雪が降るなんてね。

窓の外はとても寒そうでしたよ。

 

溝口あゆかさんの今日のブログが、とても優しく静かで明晰で、

うわぁ〜 ふわぁ〜

 

ただただここに現れているすべてを静かに見つめるだけ、

そこに経験者がいないことが見えてくるまで。

経験者と経験が二つではないと知るまで。

あなたが、一つの大きなダンス、生命だったと知るまで。

シンプルに

ただそれだけ。(*^_^*)

 

ぜひ、読んでみてください。

https://danceofkizuki.wordpress.com/2015/04/09/本当にここにあるもの/

 

 

青空禅フォーラムは明後日です。

伊東先生は、知性と感性のバランスが抜群なティーチャーです。

 

 

ただ咲いている

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去年、小さな鉢植えのヒヤシンスを買って、香りを充分に楽しんだ後、

庭のハリー(亡き相棒犬)のお墓の横に植えてみました。

そのままほったらかしていたのですが、

日曜の朝、ふと見るとひっそりと花を咲かせているではありませんか!

カタチは素晴らしく整っていないけれど、生きて花を見せてくれました。

 

お花屋の店先に並んでいた奇麗な花も、庭の片隅にひっそり咲いた花も、

歌の歌詞じゃありませんが、本当に、世界にひとつだけの花、だわと実感しました。

 

自然はそのまま、ただ、ありのまま、ですね。

人間はいろいろなストーリーをくっつけてしまうんだってこと、

こんな小さな花から、ハッと思い出して、

無心のひと呼吸です。

 

 

なぜ?と問わずに今を生きる

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今日は立春ですね。

今日は朝からいいことがありましたよ。

とってもささやかだけどね。

 

数年前に、逝ってしまった相棒犬のハリーと朝の散歩をしている時、

よく出会う方がいらしたのですが、

今朝、朝の散歩道をサッサか歩いていたら、じーっと私を見ている人がいて、

それがその方でした。

 

まぁ久しぶり! よかったわ〜また会えて。

 

と言ってくださって、私も嬉しくなりました。

どこのどなたかも知りませんが、朝だけのトモダチです。

 

私の母は高齢で、記憶がすぐに無くなってしまいます。

話している時は普通の会話なのですが、ちょっと前のことは空白。

忘れてしまう、というよりも、記憶がほぼインプットされないのだろうと思います。

慣れたとはいえ、今朝もひっくり返りそうな応答があって、ふふふと笑ってしまいました。

そんな風にちょっと普通とは違う母をずっと見ていて、

瞬間、瞬間だけに居て今を生きる姿は、ちっとも変ではないし、不都合でもない気がしてきます。

 

分からないということは、人間にとってとても不安ですから、

今に至るまで、本人はその変化に抵抗していました。

なぜ私の頭は変になっていくの? バカになって行くの? … ずいぶん苦しかったと思います。

もちろん今でも分からないから同じことを何度も言われたり、聴かれるので、

あちらもこちらも大変なのですが、

母の笑顔は、どんどん穏やかで和やかになっています。

安心できる場所にいるのかなぁ。

 

瞬間、瞬間を楽しもうとしているのとは全く違っていて、

ただ瞬間に在る。

だから、あんな風にいい笑顔になっているんじゃないかなぁと、

真理の探究ムスメ的には思うのでありました。

 

気づいているに気づいている、ふんわり咲いている白いお花のよう。

 

 

 

 

 

 

気づいているに気づいている

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この間、やれやれ、と思うことがありました。

初めて会った人のことを友人に話していて、

「あぁ、あのメガネをかけた人ね?」ときかれた私は、

「え? メガネ? かけてたっけ???」と言っていたのです。

その人がメガネをかけていたという認識が抜け落ちていて。

友人は目をまんまるくしてから、涙が出るほど大笑いしました。

見ていないにもほどがある!って。

やれやれ。( 村上春樹 風に )

 

よ〜く思い出してみればメガネをかけていた、確かに。

でも、私がその人を思い浮かべると、口元だけが印象に残っています。

対象物を見ているようで、そのままは見ていません。

聴いているようで、そのままは聴いていません。

思い込みと錯覚を、のびのびと生きています。

 

 

先日の青空禅フォーラムではいつものように、

私とは何か? どこにあるか? をいろいろな角度から検証。

 

「私」が対象を見て、感じます。つまり、対象に気づいています。

主体であるこの私こそが見ている、気づいている側だ、という信念をほぼ全員持っています、よね?

それは主体と客体、という二元構造です。

でも実は、主体は私だと思っているのは 錯覚 です。

この「気づき」こそが主体なのです。

全員 気づいているけれど、気づいているという状態に明白に気づいている人は少ない。

昔から覚者が言うように、全員が既に悟っている。

一瞬、それって素敵!と思いますよね。

ところが! 気づいている状態に気づくことからあっという間に離れて、

じゃあどうやって感じられるの? という問い(思考)にくっついて行ってしまう。

そして、「どうしたら?という旅」が始まってしまうのです。

だ か ら、やることはシンプル。

気づいている に かる〜く気づいている を練習しましょう。

 

伊東先生のお話はいつも丁寧で、

言葉で表現し難いニュアンスを表現することばのセンスが素晴らしい、

と常々思っているのですが、

この時は、

「主体と思っている私」のことを「 私 感覚 」

という言葉にされた。

… あ〜は〜!♡

 

言葉って本当に悩ましいですね。

ずっと無意識に使っている「私」とか、エゴ、自我という言葉には、

知らないうちにくっつけていたイメージがあります。

確固たるもの、堅く囲われていて枠がしっかりあるもの、分離独立した存在  …

「 私 感覚 」と置き換えてみたら、とたんに「私」に隙間ができました。

疑いもせずにあると思い込んでいたのは「私」じゃなくて、

最初からただの「 私 感覚 」だけだったのか〜 パチパチパチ!

 

ということで、

 

立ち位置は、この「 私 感覚 」じゃなくて「気づき」に。

 

気づいていることに気づいている。

対象、ものや何かに、ではなく、この「気づいているということ」に。

 

… ややこしいですか? 文章が下手くそすぎてなんだかわからない?

または、にやりと笑って、はは〜ん、と思いましたか?

さぁ、それではぜひ、2月14日(土)の青空禅フォーラム  にいらしてくださいな。

伊東先生の揺さぶりをダイレクトに、リアルに、ダイナミックに、

まずはプロトマニアで体験してみてください。