素直

 

shigyokuran

素直にもどることは難しい。

難しいけれど、とても大事なのですね。

自分のこととなると自我の抵抗はやっかい。

自我はとても臆病で、巧妙だなぁと感じました。

指摘されて気が付いたら、反対方向へ一所懸命走っていた!!

真っ青。

どおりで苦しいわけだ。

とほほ。

でもまずは気が付けてよかった。

 

深呼吸!

 

直指人心

廓然無聖

 

ことばのむこう

timeflys

今朝、交差点でお散歩中の犬と飼い主に目が止まりました。

犬はしきりにある場所の匂いを気にしてその場を動こうとしません。

飼い主はグイッとリードを引っ張って歩き出そうとしますが、犬は首を引っ張られながらも匂いを嗅いでいて、

飼い主は仕方なくその犬を見つめて待っています。

犬は言葉を話さないけれど、はっきりと自分の意志を示しています。飼い主は犬の意志を受け入れています。

犬も人間も生命が宿るものとしてみれば同じだなぁとそれを見ながら思っていました。

人間には言葉があり理性があるので犬よりはスペックが複雑、しかしそれは人間という生物の在り様で、良いも悪いも上も下もない。

 

インドの仏教の考え方では動物までは生命があるから動物を食べてはならず、植物にそれはないから食べてオーケー、

そういうわけで仏教者はベジタリアンで、動物を食べませんが植物は食べるのだそうです。

日本には草木にまで生命があり仏性があると考える。まして動物の成仏は当然。

インドという土地や歴史・気候が作った考え方と日本の風土が作った考え方。

あるものの見方や考え方は、その歴史風土に合ったカタチで長い間に作られ、ある点から見ればそれは整合性があるけれど絶対普遍ではない。

 

これまで洋の東西を問わず人間の本質について書かかれて来た本や教えをあれこれ読む時、

私たちはそのままそれを読んで鵜呑みにするとかその通りにする、そうなる事を目指すなんてことはできません。

青空禅の伊東先生がおっしゃっていましたが、時代も環境も違うから同じようにはならないし、出来ない。

絶対普遍は、言葉でというより、エッセンスで伝わる。

私たちに出来ることは、そのエッセンスをつかむこと、汲み取ること。

それは理解というより、キャッチするセンス。

書かれたことばを理解するのではなく、言葉にとらわれずに感じ取るセンス。

 

人と人の出会いはありがたいもので、いろいろな可能性に気づくことが出来ます。

例えば誰かを好きなったら、最初はその人のことをまるごと好きになって夢中になっているけれど、

段々と現実的になって少しずつ相手への批判が生まれます。

相手への要求が高まって不平不満もいっぱい、自分のことは棚に上げて(苦笑)。

それでも好きになったり嫌いになったりしながら人間はなんとか関係を維持していきます。

そんなシーソーみたいな繰り返し。

その繰り返しに、もうウンザリと思うこともあるけれど、

肉体を持った人間であればこそのシーソーであって、けっして悪いばかりではありません。

人間って愚かだなぁとか、どうしようもないなぁとか、思うことしばしばあれど、

人間はそれでも素晴らしいという希望、承認、愛情はいつもどこかにあるのです。

これまたシーソー。シーソーがあればこそ可能性に気づける。

繰り返しているうちにいつの間にかシーソーの真ん中で微笑んでいたりして。

 

自分の中に初めて愛が生まれた時のあの感じを思い出すと、そんな愛が自分にあること自体に感動してしまいます。

好きになったり嫌いになったり、勝ったり負けたり、怒ったり笑ったり…

それ自体が悪いのではなく、その見方や感情に固定してとらわれてしまわなければ良いだけ。

どちらでもいいではなく自分の意見を持て!と教育されて来たので、

自分の見方や考え方を主張することが良いことだと思って来ましたが、そのためにずいぶん余計なエネルギーを費やして来ました。

でも、本当はどちらでも良い、ありのままで良い。好きになったら好きになったのでよく、嫌いになったら嫌いになったのでよい。

良寛さんもそう言っていたものね。

 

昨日、思考いっぱい派の私にも、ちょっといいことがありました。

長いこと繰り返し頭を抱えて来た問題に対して、

それでもあれほど素晴らしい時間を過ごせたことに本当に感謝だわと、気がついたら勝手にそう思っていたのです。

ふふふん、シーソーがちゃんと動いている。

大きな普遍の愛と同じように、感謝のような身の回りのささやかな愛情を大切にしたいです。

 

揺れ

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プロトマニアのお化粧室の洗面台はちょっとレトロな雰囲気でタイルが貼られています。

これは建築家の幼なじみと私とで貼った手作り。

といっても私は横で手伝う助手ですが、ちょこっとでも参加した部分があるのは嬉しいものです。

そんな洗面台のタイルはほぼ美しい仕上がりですが、よく見るとズレているところがあったりします。

掃除をしていてふとそのズレた一つのタイルに目が行って、思わず笑ってしまいました。

 

理路整然として秩序が保たれた完璧な美は文句なしに美しい。

バレエだって絵画だってお寿司だって、プロフェッショナルの技と魂のこもったカタチはうつくしい。

でも、ちょっとほつれて崩れたものにも面白みや美しさがあるなと思います。

それは見つけた人の美なのかもしれないけれど。

 

最初は良いと思っていたことがとても嫌なことになったり、

健康的であったことがいつのまにか極端になって病的になっていたり、

これはダメよねと思っていたことが、それもありかもしれないと思うこともあります。

 

ひとつのことに凝り固まって考え過ぎないで、別のことを考えていると、結局元のことの筋道もついていたりする、

と友達が言っていました。

 

聴くこと

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聴くことはなかなかに難しい。

相手からの言葉を待つことができずに、根ほり葉ほりこちらから質問してしまうこともあるし、

自分の理解に収まるひとりよがりのストーリーに捻じ曲げてしまったりします。

 

「聴く」のは言葉を聴くというよりも、ことばにならない相手のそれをすっぽり聴くこと。

 

私は仕事で病院や老人健康施設と関わることがあって、

「ケアする人のケア」について考える、ということを知るチャンスがありました。

看護や介護をする人たちのそばには、生きていることの意味や死ぬことの意味、

本当に生きることが死ぬことよりも幸福なのか、人は本当に誰かを愛することができるのか、

といったある意味哲学的な問いが日常的にあると言います。

 

私は最近、母の世話をしていることからふと感じる、どうもよくわからない不思議な気持ちに気付きました。

鷲田清一さんの講演録を読んでこれかなと思ったのは、

 

ケアする人は、ケアすることで他人の「宛て先」になれると言えます。「聴く」という最も受け身に見える行動の中で、その人が苦しい言葉を漏らしてくれるのは、その人に関心を持っている他人として、その人のことが知りたいと思っている他人として、無条件に自分を認めてくれるということです。つまり、ケアするということは、ケアされる人の意識や言葉の「宛て先」として認められ、選び出されるということなのです。

条件なしでケアされるということがいちばんのケアだとすれば、そのときケアされる人にとっては、「私がいる」というただその事実だけで自分を「宛て先」にしてもらったという経験です。 すると、ケアされる人の側から、ケアする人の側に「宛て先」として送り返されるということが起こります。つまり、「この人だったら言いたい」「あなたに聴いてほしい」というカタチで、カウンセラーだからとかナースだからといった属性ではなく、私だから言葉を漏らしてくれるという、逆の贈り物をもうらような体験をすることができます。このような、ケアにおける反転という観点は、ケアではとても本質的なことです。

 

でもこれには良いことばかりではなく、一所懸命やっているのに気持ちが通じない、とか、どうしてわかってくれないのか、

というように相手がその思いを受け止めてくれないと、それが怒りや憎しみにまでなってしまうことがあると言います。

他者へのいたわりや優しさがそこにあるはずなのですが、思いも寄らぬ方向へ自分の感情や思考が走ってしまうこともある。

 

終末医療に長年関わった方が、出来ることは手を握ってそばに寄り添うこと、と言っていました。

 

聴いてもらうことは、言葉を受けてもらったという体験であり、語ることによって、自分に取り付いている不安の実態が何なのかを、聞き手の胸を借りながら探索しはじめるということです。(中略)不思議なことですが、見守ってもらっているということを確認することで、逆にその人に背を向けて一人になれる ——— そいうことが私たちにはしばしばあります。  (鷲田清一講演録より)

 

実践

riasin

 

情報よりエネルギーを見よ、ということを I Medic & Art の伊東先生がおっしゃる、ということを書きました。

それは例えば、

「阿呆かいな!」と言われたとします。

その アホ !  を言った時の気分が、イライラむかむかしてのアホ!なのか、

はたまた、あらま、なに言ってるのかしら、しょうがないわねぇ…(smile) なのか、

その言葉を乗せて運ぶエネルギーの質によって、同じことばが全然違うものになる。

 

もしそこで「阿呆」(例が悪いかな???)ということばにフォーカスしてしまうと、

あ、私のことアホって言った、阿呆とはなにごとだ!! そういう君こそ… あれこれあれこれ…と

その言葉がきっかけになって10のモノが100くらいまで膨らんで、あげくに怒り心頭なんてことにもなりますが、

そちらではなく、そのことばの纏った空気(エネルギー)を読み取ることで、

余計な争いやイライラの罠に陥らずに済むのだそうです。

然り。

 

「そういうのって、男だなって思う」とか「あぁ、女だなぁって感じがする」というような表現は、

なかなか微妙でありまして、前後の会話の内容もありますが、良い意味だったり批判を込めていたりします。

今日、友達から私についてそういった微妙な表現で私自身としては意外なことを言われたのですが、

以前の私だったらきっと、言われたことを気にしてこねくり回して(笑)3日間くらいそれについて考えてしまったかも。

なぜならば言葉だけが私の中に印象として残っただろうから。

でも「あら、そうかもね」でおしまいになり、逆に、よく見ているなぁ、さすが友よとさえ思いました。

おそらく友達には、私を批判しようとかやり込めようとか、そういう魂胆(笑)が微塵もなかったからだと思います。

 

言葉の纏った空気をとらえる感性は大切。

フェアで中立の位置も大切。

 

毎瞬、ドアは開いているから、まずは実践。