バーソロミューの言葉

薔薇

久しぶりに「バーソロミュー2」を開いてみました。

この本は、初めて出会った 愛すべき不思議な本。

 

本を開いて最初の「バーソロミューの言葉」を読んだ時、

ことばが遠いところから聴こえてくるようで、自分の周りに静けさが広がって、

一瞬、お芝居の舞台の上に突然立ってしまったような気がしていました。

 

今読むと、この本にずーっと見つめられていたような気がします(汗)。

だからずっとそう言っているのに〜と言われてしまった気分です。

この本、生きているかも!!

ご興味あればぜひお読みくださいね。

青空禅仲間の青空永音さんの朗読ブログでもどうぞ。

 

 

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問題は何もない!

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問題は何もない!(笑)。

これが起こることです。心は問題を生み出し、解決法を欲しがります。

たいていの場合、問題は解決法を必要としていません。

問題は解決ではなく、解消されることが必要です。

なぜなら解決法はないからです。

問題が解消される唯一の方法は、それらが起こるやいなや、

単に観照されることです。

マハラジが言っていたように、それらは受け取られません。

心が巻き込まれるとき、そのとき問題は問題となります。

さもなければ、それはただ思考にすぎません。

もしその思考が単に観照されるなら、それは消えます。

 

『意識は語る ラメッシ・バルセカールとの対話』より抜粋

 

”わたし”の本質

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あなたが自分自身と呼んでいるあの慣れ親しんだ感覚、

間違って〈 自分 〉 と呼んでいるあの感覚に気づくようにここでまたお願いしたいと思います。

実際のところ、あの慣れ親しんだ感覚というか、歓喜の絶頂から憂鬱のどん底まで、

愛から憎しみにいたるまで、不安から喜びにいたるまで、

あらゆる過程に存在する感覚こそがあなたの本質です。

あなたは ” わたし ” を間違って 〈 自分 〉 と呼んでしまったのです。

生まれたり消えたりするのは有限の 〈 自分 〉 です。

あなたといつもいっしょにいて、

朝目覚めた瞬間からもっとも深い夢の瞬間までいるのが ” わたし ” の本質です。

あなたは、” わたし ” の本質をいつも感じているのですが、

それをいままでは間違った名前で呼んできました。

これまであらゆる瞬間に感じてきた感覚があなたの求めているものです。

他のあらゆるものはその上に反映されます。

こうしてここにすわっているときも、常に変わらず存在するのはその純粋な意識です。わかりますか。

あなたは自分がすでにそうであるものを求めているのです。

あまりに明らかで、不変で、強く、なじみが深いので、それがわからなかったのです。

どうか見過ごさないでください。」

 

バーソロミューより抜粋

 

 

静かに見つめる

silent

春の雪。

4月に雪が降るなんてね。

窓の外はとても寒そうでしたよ。

 

溝口あゆかさんの今日のブログが、とても優しく静かで明晰で、

うわぁ〜 ふわぁ〜

 

ただただここに現れているすべてを静かに見つめるだけ、

そこに経験者がいないことが見えてくるまで。

経験者と経験が二つではないと知るまで。

あなたが、一つの大きなダンス、生命だったと知るまで。

シンプルに

ただそれだけ。(*^_^*)

 

ぜひ、読んでみてください。

https://danceofkizuki.wordpress.com/2015/04/09/本当にここにあるもの/

 

 

青空禅フォーラムは明後日です。

伊東先生は、知性と感性のバランスが抜群なティーチャーです。

 

 

生きることと本質

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「あなた方はみな人間です。

あなた方はみな自分の力の範囲内でできるかぎりのことをして生きています。

それが生きることですが、同時に、それはあなた方の本質ではありません。

それは一時的な状況なのです。あなた方にとってするべきことは常に同じです。

こうした不断に変化する顕在意識の中を一貫して流れる、いのちあふれる豊満な意識にめざめることです。

あなた方はみないつかはそれを発見するでしょう。それがあなた方を離れたことはないのですから。

あなた方の目的は幸福になることではなくて、気づくことです。

それを決して忘れないでください。それと同時に、できるだけ素直に熱心に人生ドラマを演じてください」。

 

バーソロミューより

テヅカクンのこと

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テヅカクンは、ずっとそこにいたらしい。

最近、思わぬことで再会した時、テヅカクンはとても気の弱そうな印象だった。

髪の毛ボサボサで賢くて気の良さそうな、だけどまったく冴えない感じ。

 

ちゃんと思い出せば、これまでカチンと何かがぶつかったり、突然カッと熱くなったり、

酸欠みたいにパクパクしてしまう時、

必ずテヅカクンが何食わぬ顔してぼーっとそこに立って見ていた、

その平然とした感じが最初とっても癇に障った。

そのうちテヅカクンがいると私は不幸になる、嫌な目に遭うという回路ができた。

アレルギーみたいに条件反射で、全身全霊で拒否して、

もう!どっか行っちゃってよっ、と心の中で叫んだ。

 

だからずっとテヅカクンのことを封印していた。

テヅカクンのことは、無視だ。

 

 

誰かや何かを無視することは、心の中の殺人です

 

 

と、高校生の頃に習った。

テヅカクンのことは、いつの日からか怖くて絶対に認めちゃいけない存在になって、

こころのなかでサツジンしていた。

 

そして、テヅカクンは居るのに居ない、

 

『 無いもの 』

 

となった。

 

 

 

 

 

 

 

すべてのものの向こうに愛を見る

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プロトマニアの柱である「青空禅フォーラム」ですが、

この週末は広島でも「静かなる心という贈り物」という素敵なタイトルで、

青空禅フォーラム・広島 の2days 伊東先生講座が行われています。

私がこれを書いている今頃は、実践編ワークショップの真っ最中ですね。

 

禅やヨガは相変わらず国内外で人気。

早朝、禅寺で座禅を組んでから出勤するサラリーマンも多いし、

瞑想ワークショップや心を整えるためにはどうしたらよいかが書かれた本など、

次々に出版されています。

海外には、講演会を開けば超人気アーティストのライブコンサート並みの動員数になる

悟りティーチャーもいるそうです。

ちょっとビックリでしょ?

うまくいかない人生の状況をなんとかしたい、という動機と同じくらい、

真実が知りたい、というシンプルな動機で講演会に集まる人々がいるんですって。

 

私たちが生まれてから育つ間に、意識的にも無意識的にも教わったこの世の流儀は、

世界の中にこの身体と心を持った「私」が、個、として存在している、

が基本仕様でしたが、

禅やインド哲学、悟り、非二元、といわれるものでは、

個がポツンと宇宙の中に分離しているのではなく、

本来あるのは、たった一つ、唯一の源(神・存在・本質・真我・愛などなど)である、とされます。

 

そんなこと言ったって、この身体はちゃんと固体的にあって触覚できるし、

どこが幻なんですか〜?

 

と思われるところを、その常識や信念やこの世の流儀をあえて疑ってみて、

一つずつ丁寧にひも解いては検証して、

本来のわたし の位置を知る、という意識のシフトが青空禅です。

それは、宗教ではないし、哲学でもありません。

実は、この目に見えている世界の大いなる多様性をもっとも受け入れられる目の位置、見方、

ではないかと思います。

 

一つの神を崇めるが故に他を排除するすがた、

何かを信じるが故に閉じて守るすがた、

誰かを特別視するが故に他を貶めるすがた、

そうではない丸ごとの世界をどこで誰が見ているのか、ということを知る。

(知る、という言葉は適切ではないかもしれませんが、とりあえず。)

真理を知る本物であれば、境界や分離はありません。

マザーテレサは、イエスへの愛を貫いた人ですが、

臨終のイスラム教徒にはコーランを読んであげ、

ヒンドゥー教徒には火葬の手配をしてあげたそうです。

 

青空禅の場は、壮大に見えるけれど誰にとっても身近であることに触れる場です。

大きくてシンプルな真実を言葉にすることは、

時として誤解したり勘違いしたりする危険もあります。(本当はその人次第なのですが)

現実が苦しかったり、思考や感情が整理されていない時に、これはすべて幻想です、と言ったら、

憤慨するか、それを逃げ道にして開き直ることもできます。

 

伊東先生が語るように、

本質に気付いたとして、それが何の得になるのか?
  何の得にもなりません!(笑)
しかし、損か得かという自我の想念から、自由になります。

 

ということで、これを知ったところで、苦しい時は苦しい、楽しい時は楽しい、だけなのですが、

問題解決やより良くなることのためにエネルギーを使うのに飽き飽きしたら、

この青空禅が扉である平安へどうぞ、と私も思ってコツコツやっています。

 

これが達成目的なのではなくて、これこそが「基本・ベース」で、

これまで通り、絵を売ったり、会社員をしたり、医療に携わったり、カウンセリングをしたり、

お母さんお父さんをしたり、妻や夫をしたり、介護をしたり看病をしたりするのはいかがでしょう。

 

へんな言い方に聴こえるかもしれませんが、もちろん青空禅だけがすべて、ではありませんよ。

このプロトマニアでもご紹介している方たち、

たとえば「青空と雲」の ikegame さんは、

ご自身の体験や伊東先生の会の忘備録として、とてもすっきり素敵なブログを書いていらっしゃる。

ゼロセラピストの坂本範子さんは、

エステティシャンからカウンセリングの勉強や伊東先生の会で学ばれて、

現在は仕事をするお母さん、妻、主婦、女性の立場からご自分の言葉とスタイルで本質を伝えています。

青空禅で伝えている本来の私の位置、「本質」をベースに、

病気の方たちとサポートし合う活動を長年続けていらっしゃる方もいます。

 

そして、自然体でとてもチャーミングな心理カウンセラー溝口あゆかさん

その門下生の方達、そして海外のティーチャーなどなど、多くの先生たちがいらっしゃいます。

真理はひとつだから、皆、一つのことを伝えていますが、

アラカワヨウコにはアラカワヨウコが一番しっくり来る説明や出会いや表現がありました。

ですから、きっとこれを読んで下さったあなたにも、

これなら! という場と機会があるのだと思います。

 

それが、プロトマニアでの青空禅フォーラムだったら! なおさら、良いのにな!!

3月には沖縄でも「青空禅フォーラム沖縄」がありますよ〜

いつかどこかでお会いしましょう♡

 

 

すべてのもの、こと、人の向こう側に、愛を見る。

その平安に寛いでいることは、

見ることも触れることもできない「本質」への道しるべ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何も起こっていない、という贈り物

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告白します。

食べてはいけないものを食べるのが好き。

そっちは危ないから行かないで、という方向に、つい、行ってしまいます。

ダメダメと言われると、本当にダメなのか? と確かめたくなる。

声、話し方、頭がワルイ、が弱点。

みじめさ、取り残されることに怖れが強い。

その怖れが強いことが、さまざまな場面で感情の嵐を呼ぶ(笑)。

実はドラマティックなドラマこそ大好き、でした。

裏切り、嘘、ごまかし、執着、自己中心的裁き、正義、背徳、献身、嫉妬、愛、誠実、信頼  …

などなど切りなく…

表面のワタシが穏やかさを求めれば求めるほど、

ドラマティックなストーリーを招くのです。

なぜなら、内面が外に表れるのだから。

ワタシの心が作った結果が、瞬時に外側に現れている。

驚愕!

エゴの世界。

 

 

通奏低音のようにずっと「この世界とは何か? わたしとは何か? 」 を知りたかった、

と書いたことがありますが、

すべての人、もの、こと、この世界に、通奏低音のように流れているのは、

 

平安。

 

平安なのです。

愛、ということばは、くすぐったいかもしれないけれど、愛、です。

怖れとは、愛を求めて叫んでいる姿。

 

でも、あるものは、愛だけです。

それ以外は、何も起こっていない。

 

 

何も起こってなどいない、という贈り物を、

受け取りました。

片時もそれを忘れない態度を、身につけていこうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歩く

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昨日の日曜日、私は散歩に出かけました。

昔からよく歩いているのですが、このところ諸事情により車で時間短縮をすることが多くて、

久しぶりの散歩でした。

 

歩くことって、からだにも頭の整理にもとてもいいですね。

そしていろいろな風景に出会って発見がたくさんあります。

お金のかからないちょっとした冒険です。

 

よく歩いたなぁ。

お仕事がなくて暇と時間がたくさんあった頃は、不安を紛らわすように歩きました。

寂しい時、ケンカして頭がいっぱいの時、ゾワゾワ落ち着かない時、歩きました。

歩くとスッキリしたのは、あたまを使わずに歩く身体の動きにただ従っていたからかな。

思いつきでとりあえず歩いてみようと行き当たりばったりで歩き続け、

意外な発見をして、結果、充実したシアワセの小さな旅のことも思い出します。

 

お遍路さんは歩いて歩いて無心になるのでしょうか。

アリストテレスもプラトンも歩きながら議論したり講義したらしい。

日本の哲学者、西田幾多郎だって歩いていた。

歩くと脳が活性化するそうだけれど、私はぽっかりと何かに委ねる感じもする。

人間には歩くことへの本能的な欲求でもあるんじゃないかしらん。

 

私は哲学はしませんでしたが、ズンズン歩いて歩いて歩いて、

ふくらはぎが今日はパンパンです。

お散歩、楽しや。

 

理性をもって真実を選択する

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*****

今、この瞬間、何もせずにいてごらんなさい。何か考えが浮かぶかもしれません。放っておきなさい。

肩の力を抜いて浮かんで来る思考や感情の中に入り込み、あなたという存在の自然な在り方、自然な真実を、思考に優先させてごらんなさい。

こうして「止める」ことで、あなたは改めて、常にここに在るものの真実の姿、あなたの本当の姿に気づくことができます。

さあ、今この瞬間に、あなたの理性をもって、その真実を選択しなさい。あなたの理性をその真実に結びつけるのです。

そうすれば、どんな問題が起きたとしても、真実と結びついた理性で立ち向かうことができます。

そしてその真実は、思考が停止する度に再確認されるのです。

「止める」というのは訓練ではありません。それは単に、尽きることがないように思われる思考の流れの中に、

思考を追いかけないという選択肢があることに気づく機会です。

思考を追いかけないことで理性は停止し、ここに存在するもの、じっと沈黙し、常に止まっているもの、それが姿を現します。

常にここに在る静寂に気づいた瞬間、あなたはあなたの本当の顔を見つけ、神の存在に気づきます。真実に目覚めるのです。

するとあなたは、肉体の痛み、感情的な動揺、精神的混乱といった人生の試練に、これまで以上の明瞭さと見識をもって対処することができます。

こうした状況と自分自身を混同することがないからです。

 

ポケットの中のダイヤモンド  ガンガジ著 より