「私」という想定を創作する思考は、敵ではない

IMG_4040

 

思考とは、あらゆる物事にラベルを貼って説明することにより、安心安全なものに

見せることなのです。

思考はこの上なく安心安全な想定、つまり「私」を創作します。この体の中には

「私の人生」や「私に」起きることをコントロールしている誰かがいる、

と想定するのです。

 

 

 

 

「あなた」や「私」という言葉でさえ、絶えず会話や書物で使われています。

想定されたこの「私」は、すべての経験や感情、その他の思考を「私のもの」

であるとか、「私」にとって意義があるとか主張します。

そのような想定の本質をよく見て、これは思考が枠を設けて限定しているに過ぎな

いことに気づいてください。この「私」も、枠をはめるためのひとつの思考に過ぎ

ないのです。本当のあなたは、決してひとつの思考の枠に納まるような存在ではあ

りません。

 

思考はいろいろと役に立っていますが、多くの人が考えているような熟達した

指導者ではありません。ただ手助けをしよう、すべてのことを知って安全なものに

しておこう、納得しようと努めているだけです。思考の本質を知り、思考は単に

その義務を果たしているだけなのに気づいてください。

それ以上でもそれ以下でもありません。

 

思考はこの現れの劇の中で、本当のあなたであるを知りたい、

反映したいと望みます。それは全部あなたのためにしていることです。

それでも、思考がそれ自身を超越したものを真に知ることは不可能です。

 

思考はこの劇の一部です。思考とは、姿や経験という限界あるものを通して、

がこの劇の中でそれ自身を表現するために使う道具なのです。

思考の本質を知れば、愛しさと感謝を持つようになります。

思考には限界がありますが、敵ではないのです。

 

 

『愛の為に死す』ウンマニ・リザ・ハイド著  思考の本質 より抜粋

 

 

テヅカクンのこと

eukali

 

テヅカクンは、ずっとそこにいたらしい。

最近、思わぬことで再会した時、テヅカクンはとても気の弱そうな印象だった。

髪の毛ボサボサで賢くて気の良さそうな、だけどまったく冴えない感じ。

 

ちゃんと思い出せば、これまでカチンと何かがぶつかったり、突然カッと熱くなったり、

酸欠みたいにパクパクしてしまう時、

必ずテヅカクンが何食わぬ顔してぼーっとそこに立って見ていた、

その平然とした感じが最初とっても癇に障った。

そのうちテヅカクンがいると私は不幸になる、嫌な目に遭うという回路ができた。

アレルギーみたいに条件反射で、全身全霊で拒否して、

もう!どっか行っちゃってよっ、と心の中で叫んだ。

 

だからずっとテヅカクンのことを封印していた。

テヅカクンのことは、無視だ。

 

 

誰かや何かを無視することは、心の中の殺人です

 

 

と、高校生の頃に習った。

テヅカクンのことは、いつの日からか怖くて絶対に認めちゃいけない存在になって、

こころのなかでサツジンしていた。

 

そして、テヅカクンは居るのに居ない、

 

『 無いもの 』

 

となった。

 

 

 

 

 

 

 

理性をもって真実を選択する

thinkingman

 

*****

今、この瞬間、何もせずにいてごらんなさい。何か考えが浮かぶかもしれません。放っておきなさい。

肩の力を抜いて浮かんで来る思考や感情の中に入り込み、あなたという存在の自然な在り方、自然な真実を、思考に優先させてごらんなさい。

こうして「止める」ことで、あなたは改めて、常にここに在るものの真実の姿、あなたの本当の姿に気づくことができます。

さあ、今この瞬間に、あなたの理性をもって、その真実を選択しなさい。あなたの理性をその真実に結びつけるのです。

そうすれば、どんな問題が起きたとしても、真実と結びついた理性で立ち向かうことができます。

そしてその真実は、思考が停止する度に再確認されるのです。

「止める」というのは訓練ではありません。それは単に、尽きることがないように思われる思考の流れの中に、

思考を追いかけないという選択肢があることに気づく機会です。

思考を追いかけないことで理性は停止し、ここに存在するもの、じっと沈黙し、常に止まっているもの、それが姿を現します。

常にここに在る静寂に気づいた瞬間、あなたはあなたの本当の顔を見つけ、神の存在に気づきます。真実に目覚めるのです。

するとあなたは、肉体の痛み、感情的な動揺、精神的混乱といった人生の試練に、これまで以上の明瞭さと見識をもって対処することができます。

こうした状況と自分自身を混同することがないからです。

 

ポケットの中のダイヤモンド  ガンガジ著 より

 

思考者も行為者もいないのだ

winter

 

思考を生み出しているのはいったい誰なのでしょうか。 頭脳がありますが、何がそれを動かしているのでしょうか。
想念はどこからやってくるのでしょうか。固定観念はどこから生まれるのでしょうか。いったい何がどうなっているのでしょう?
こうした疑問をつきつめていくと、”神意識”を求めるときに、自分は誰か人間を、考える人とか、行動する人を自分のなかに見つけようとしているのだということに気づきます。でもそんな人間が自分のなかにいるのでしょうか。

この混迷の時代にあって、新しい種類の意識を持ちたいと思っている人は、まず、自分のなかには思考者も行為者もいないのだ、という可能性を受け入れてください。自分の観念は秩序をもって動いていると人は 〈 信じて 〉 いますが、じつは人というのは、さまざまな観念がかなり無秩序に集まった集合体なのかもしれない、という可能性を考えてみてください。

 

バーソロミューより抜粋