Surrender to God

 

roseroserose

 

Between two clouds, there is an interval and that interval is the blue sky !

Slow down the thoughts and look into the intervals.

Yes !  Look into the interval and pay more attention to the interval than the cloud !

First thought has left, other is not arisen, That is Freedom, That is Consciousness,

That is your own place, your own abode. You are always there, you see.

That’s all the teaching is.  Always look to Consciousness.

Always look to Consciousness and know this Awareness is what  you are !

This is your own place, your own abode.

Stay Here. No one can touch you. Who can enter Here where you are ?   Even your mind cannot enter.

 

 

This Awareness has no name and when you try to give it a name the trouble arises.

You are nameless and formless; you can’t see anything.

Know ” I am nameless and formless, ”  and that  ” I am aware of my own Self. “

The pure Consciousness will pull you back, it is not that you will enter into it.

When you enter into it, it is ego entering, but when It pulls you It has made the choice to take you Home.

This happens somehow and we can’t know why.

Very rare beings are picked up by Consciousness,

Once drawn in your travels are over !

 

Surrender to God , keep Quiet and That will take care of your responsibilities.

But if you take responsibilities on your own head, God doesn’t take care and it will seem that  he is hiding.

 

 

 

THIS  …. Sri H. W. L. POONJA

 

 

 

 

 

 

 

 

スペック

nana

老いた人が遠出先でふと姿を消して大騒ぎ。

いろいろな方のおかげさまで無事に戻って来たのですが、

その人はその場所が自分の馴染みの場所だと思っていたらしい。

そういえば、風景が似ているのかもしれない。

 

私たちはいろいろな情報を元に、目の前に広がる光景を認識し判断しているけれど、

情報の抽象度を上げてみると、たとえば坂があって白い家があって山があって…というどこにでもあり得る情景になる。

「箱根」という場所だと情報を得ているからそこは箱根。… と思い込んでいる … だけなのかもしれない。

 

もちろん現実社会とは、無数の細かな情報を認識して既成概念を共有するから成り立つのですが。

 

抽象度をどんどん上げて眺めてみたら、そこにいったい何を見るのでしょう?

 

 

それほんとう?

mamapan

昨日、ちょっと面白かったこと。

夜の帰り道、ふと建物の二階を見るとネオンのような光が、滝のように流れています。

ぱらぱらと点滅しながら滝のように光が流れている。

きれいだなぁと思ってその横を通り過ぎた時、

実はその光の滝は、電光掲示板の流れる文字の点滅だとわかりました。

斜めから見たら綺麗な光の滝だったのに、

正面から見たら凡庸なセリフのキャッチコピー電光掲示板。

私たちが見て確かだと疑いもしないものは、実はこんな風にできているのかもね。

 

「人間は時間を直線として捉える。長いまっすぐな棒に刻み目を付けるみたいにね。こっちが前の未来で、こっちが後ろの過去で、今はこのポイントにいる、みたいに。それはわかる?」

「たぶん」

「でも実際には時間は直線じゃない。どんなかっこうもしていない。それはあらゆる意味においてかたちを持たないものだ。 でも、僕らはかたちのないものを頭に思い浮かべられないから、便宜的にそれを直線として認識する。 そういう観念の置き換えができるのは、今のところ人間だけだ」

「でもわたしたちのほうがまちがっているのかもしれない」

 

1Q84 BOOK3<10月‐12月>  村上春樹著より

ちょっと気の利いたダジャレをいうひと、みたいに。

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陶を使った造形作家、保科晶子さんがフランスに渡って5年。

夏休みで帰国した保科さんにお会いしました。

 

保科さんの最近の作品は、現実にここにある 「 物 」 を粘土で包んで覆って焼く。

粘土は時間と共に乾燥したり、水分が移ったりして、中にある物の性質との相互作用で思わぬ様相を見せる。

例えば、上のカタログの写真。

赤い洋服は、保科さんがある人とデートをする時に初めて着て行ったワンピース。

お洒落をしてドキドキ出かけたデートなのに、

その人との関係は、なんとたった一度のそのデートで終わってしまった。

そのワンピースと共にその時の感情や想いを粘土で固める。  焼く。

その想いと共にワンピースは燃えてなくなり、後にはカタチだけが残る。

 

人間は何かを残そうとします。

それは、子孫だったり、業績だったり、生きた証しだったりします。

記憶したことは、いずれ忘れていく。 記憶することと忘れることは切り離せない密接な関係。

憶えておくための作業が忘れることに繋がったり、忘れるための行為がカタチに残ったり。

 

生きものは記憶と忘却と適応を繰り返して変化し続けます。

今、当然 で 現実 で 疑いもしないモノコトはただの 記憶 であって、

10秒後にそれは消滅しているかもしれません。

 

大昔から絵を描いたり、彫刻を作ったり、建物を作って、

人は何を残そうとして来たのでしょうね。

…  お金や社会的地位は生きるために必要とされ追及されますが、

教育とか教養というのは、泥棒に盗まれず、詐欺にもあわず、肉体の最期のときまで楽しめる。

何を選ぶかはそれぞれで、誰もが精いっぱいやっているのだと思います。

サラリーマンの心の病気が増えているとネットニュースに出ていましたが、

あまり一直線で固まらないように、くねくねと道草もくえたらいいですね。

美術はそういう時に、なんだこりゃ??? や あれまぁビックリ!!!  と私たちを揺さぶってくれるのです。

青空禅フォーラムの伊東充隆先生のお話も、

これからの宋海君先生の気功や井田知秋先生のサトルアロマセラピーもそうです。

そんなことが今、やはり必要なのじゃないかなぁ。

保科さんに言わせると

 

ちょっと気の利いたダジャレを言うひと

 

みたいに。

ふふっと笑えたり、視野がふわっと広がるような何かに触れる時間や出会いがありますように。

 

 

 

クレイジー

tokei

若い友だちが、

あぁ時間は一方方向でやっぱり無限じゃなかったと身体で気がつきました。

頭で無限と理解しても、腑に落ちるのとでは違いますね。

とメッセージをくれました。

自分よりずっとずっと若いひとから、「小さなところに老いを感じでこんなことに気づいた」と言われたら

私としてはちょっと微笑ましくもあり、誰もがこうして一つずつ出会っていくんだなと小さく頷く。

 

身体は確実に機能が落ちていくわけで、そのスケールで言うと確かに時間は一方方向へ進んでいるのでしょう。

でも、本当はまだ知らない別のスケールがあるだろうと思います。

世界の彼方には、いえ知っていると思っているここでだって、

私たちが知らないことが山ほどあって、簡単に常識や概念なんて吹っ飛んで木っ端微塵!

だから何が本当かなんてわからない。時間だってないかもしれないよ。

でも初めて出会う驚きには大いに驚き、大いに慌て、さっさと流さないでそれをよくよく見ておくことっていいことだと思います。

ここでの流儀を学んだ上で、” アタリマエ ”    のち  ” コッパミジン! ”   は痛快。

 

今朝テレビで、江戸琳派の鈴木其一の朝顔図屏風だったか夏秋渓流図だったか、

美術評論家の山下裕二さんが其一の絵について話していたのです、

デザイン的で計算された琳派の美を受け継ぎながらも、彼の絵はクレイジーだと。

そのクレイジーさは、ここまでやっちゃいますか?!というほどクドかったり、斬新で奔放。

其一は酒井抱一の弟子で、抱一が亡くなるまでちゃんとお師匠さんの画風に沿った粋で抑えた隙のない絵を描いていたそうです。

師匠の死の後、其一は自分の絵を描き始めるのです。堰を切ったように自由で斬新、クレイジーな絵の誕生。

クレイジーゆえに異端視され、評価されるのは後になってからだったようですが。

 

クレイジーって素敵。

ほら、あなたの目の奥にもクレイジーがキラリと光っているかも。

 

”   ならず者よ

どうして目を覚まさないんだい
君は柵の上にいるね
ずいぶんとながい間
なんて頑固なんだ
君には君の理由があるのだろうけど
君が楽しんでやっていることは
君を傷つけることもあるよ

ダイヤのクイーンは引くなよ
彼女は君を打ち負かすぜ
ハートのクイーンが一番いいって知っているだろ
何が君にとって一番かわかるよ
それはテーブルの上に並んでいるものさ
でも君は手に入れられないものばかりを欲しがるね

ならず者よ
君は若返っているわけじゃない
君の痛み、君の飢え
それらは君に懐かしい場所を思い出させているだろう
自由、あぁ、自由
人々が賛美する自由
君はその言葉に囚われて歩き続けている
この世界をひとりぼっちで

冬の寒さを君の足は感じているかい?
空には太陽がなく、雪も降っていない
今が昼なのか夜なのかもわからない
君は感情の起伏をなくしている
感情がなくなっているなんておかしいだろう

ならず者よ
どうして目を覚まさないんだい
柵からおりてこいよ
心を開いて
そこは雨が降っているかもしれないけど
君の上には虹がかかるさ
君はだれかに愛されるべきだよ
君はだれかに愛されるべきだよ
手遅れになるまえに ”

Desperado 和訳より

proton + mania

bengalensis

プロトマニアは、いろいろな人があちこちからやって来ては出会い、

普段はあまり話さないような、でもずっと気になることをフランクに話したり、

そのことについての考え方や見方を誰かから聞いたり、教わったり、

自由に臆せず質問したりできる場所になればいいなと思います。

 

大人になると、お父さんになったりお母さんになったり、

社長さんになったり先生になったり、

店長さんになったり課長さんになったり、

良いこともあるけれど、

ちょっとよそ行きの顔して社会に合わせてわざとワクにはまったりします。

それはそれでよろしくて、でも時には肩凝りしたり、自分で気が付かないうちにかなり強張っていたりします。

 

プロトマニアでは、大人の男の子、大人の女の子で、

(この表現は翻訳家でエッセイストの鳥取絹子さんがオリジナル)

わからないことをのびのびと問い、知りたいことを探り、時には感情的になってもよし、

ヘンなかっこうでもよし、からだが硬くてもオーケー、その時なりにその人なりに正直にそのままで、

こっそり、または大いに、あぁそうだったのかと気が付くような、

そんな時間や体験が生まれたらいいなと思います。

 

人間って何だろう?その本質について考えてみる時間なら、新しいレクチャーのお知らせ から

伊東充隆先生のレクチャー 

日常から少しの間  離れて自分自身と向き合うひとときなら、新しいワークショップなどのお知らせ から

静かに座る午後の瞑想会 

Transformation

heart kazura

二度と同じ瞬間が繰り返されることはないから、

同じ話を繰り返し聞いたとしても、

その都度、そこから得るものがあります。

私たちがどんな気分でいるか、どこに注意しているかによって、

いつでもそれは新しくて、何か違うことを意味している。

だからいつでも学ぶことはできるし、

いつでも私たちは変わることができるような気がします。