退屈は最大の苦悩

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むかし付き合っていたボーイフレンドが、

 

人間、暇だとロクなことを考えない。

こころがヒマなやつはロクなことをしない。

 

と、浮気している女友達のことを怒っていたことをふと思い出しました。

(私のことではありませんよ!)

 

退屈は人間にとって最大の苦悩なんだそうです。

だから生きがいとか目標とか没頭できる何かとか人とか刺激とか恋愛とかとかとか、を求める。

 

人間が生きるのは、生命を維持するためで、それ以外のことは過剰である、という考えもあります。

人生は気晴らし… とはパスカル。

人生に意味がないという事実を忘れるために常に何かをして気をまぎらわせること…

さらには、人生はジョークである… と言った歴史上の人物もいます。

 

それを聴いて、あなたはどう思われますか?

 

これだけを読んだら、

もしそうだとしたらこれまでの自分の努力や築いてきた成功は何なのか?

愛する人や子どもや友人たちとの日々が無意味だというの?

人生の負け組が言うことじゃない? ひねくれ者の戯言かも、

そんな無味乾燥な考えは受け入れ難い、と思う?

抵抗を感じる?

ちょっと感じますよね。

 

さて、

そんなはずはない

と抵抗している「私」とは誰か? 「私」 はどこにいるの?

 

 

Divercity

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昨夜、政治哲学のマイケル・サンデル教授の白熱教室を観ました。

以前、インドで起こった女子学生のレイプ事件をテーマにインドでの議論。

サンデル教授がどこの国でも問いかけるのが「市場原理主義」と「人としての正義」との葛藤。

そしてインドでの議論では、事件の背景にある男尊女卑について意見が交わされました。

レイプは他の犯罪よりも重く罰せられるべきか?

女性は男性よりも体力的に弱いから守らなくてはならない、という女性。

その発想は逆差別で、女性に体するレイプを一般の犯罪と区別したら女性自ら自分が弱い存在と認めることになるという女性。

女性も男性も人間である点で同等というのは理想であって、

現実的にはまず女性を守りながらインド社会における女性に対する意識を変えることが先決という女性。

 

二極の世界にはもれなく葛藤や矛盾があります。

男と女、陰と陽、光と影…

ダイバーシティー、多様性 。

違いを認め合い受け入れて補い合って共に生きる。

人間は実際、平等ではありませんが、違うものを怖れず、無視せず、排除せずになんとかやっていきたいものです。

 

 

では、自分自身で全体的である、とはどういうことでしょうか。

それは、狭量で限界のある考え方に片寄らず、あらゆるものを受け容れ、自分の中に取り入れる気持ちを持っている、ということです。

言いかえれば、ポジティブな面に焦点をあてれば、必ず、同時にネガティブな面を作り出している、ということを知っているということです。

何かが分かった時には、それ以外のことについて自分は無知であるということを認める、ということです。

神聖な使命感を持ったならば、その裏側の罪と共に生き、その責任を受け入れてゆくということなのです。

 

「なまけ者のさとり方」 タデウス・ゴラス著 より

 

たえず努力する

blooming

本棚に並んだたくさんの本の背表紙を見て、

あぁ、あの人もこうして格闘したんだろうな、と思った。

 

哲学は回り道だと簡単にいうけれど、

ひとにはひとのアプローチの仕方があり、

それはそれぞれのために千差万別に用意され、誰にもその是非を言うことはできない。

やってみた人本人にしかそれが正しい道か、違っているかはわからないし、自ら選べない。

その人がそれでつかんだものを誰も知らない。

ただ真摯にそれに向かうかどうか、できることはそれだけ。

それで十分ではないか。

 

 

二人の人間がおたがいの本質を見ようと

たえず努力することは、

真の友情のあかしです。

バーソロミュー

 

修業をめぐる考察

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私は中学生の時に剣道部に入ったことがあるのですが、

基本の裸足のすり足があまりにも痛くて、あっという間にしっぽを巻いてやめてしまいました。

私はおよそ修行的なことは苦手。

小さい頃バレエを習っていましたが、そのバレエ教室はのんびりして人と競り合うというような空気は全くなく、

年齢も学校も違う様々な環境の友達との間で、お世話をされたり、したりしながら学んだお稽古ごとのおかげで、

ごく自然に上下関係やその場に適する身の処し方を習得したかもしれません。

 

東京駅近くの本屋さんで内田樹さんの「 修業論 」という本が目に入り

面白そうなので買って読み始めましたが、これ、おもしろいです。

合気道の武道家であり、思想家である内田樹さんはご存知の通り幅広く人気のある存在ですが、

なるほど文章が平易で面白く読ませ、今の私がうんうんと頷くところがいろいろありました。

 

本質は何かと問いながらいつも思っていたことは、知性だけでも感性だけでも足りないということでした。

考えたり理解しようと本を読んだり人の話を聴くばかりでわかっても、それはわかったに過ぎない。

わかることとそうであることは全く違うもの。

そうであることは、厳密に言えば感覚でもなく言葉にはならないことですが、

ひとまず外から入った知識や情報を丸ごと飲み込んでその後自分で咀嚼する、

つまり理解と感知して腑に落とすところまでいかないと

そうであることへの門の前には立てない。

自分のことばで語ることができなければ、それはただ、わかった程度のものでしかない。

理知は身体に落ちないと定着せず、その先へは行けない。

ヨガで習ったように、

まずは真似して、その後自分のやり方を見つけて、最後はその自分からすら離れる、という道程でしょうか。

そんなことを最近あった出来事やこの本を読みながらつらつらと考えました。

 

内田さんの本で今日気に入ったところ。ちょっと長いけれど。

 

先行する解釈は、後に出てくる、より包括的で、より整合的な解釈に、部分的に妥当するローカルな法則として生き残ることをめざせばよい。だから、修業者は、どれほど未熟であっても、その段階で適切だと思った解釈を断定的に語らねばならないのである。
どうとでも取れる玉虫色の解釈をするということを、初心者はしてはならない。どれほど愚かしくても、その段階で「私はこう解釈した」ということをはっきりさせておかないと、どこをどう読み間違えたのか、後で自分にもわからなくなる。
多義的に書かれたテキストには、腰の引けたあやふやな解釈をなすべきではない。それはテキストに対する敬意の表現ではなく、「誤答すること」への恐怖、つまりは自己保身に過ぎない。

 

私たちは「そういうもの」がまるで自然物のように自存するかのように言葉を使うが、それは違う。「自我」などというものは、とりあえず鏡像段階以前の幼児には存在しないし、睡眠中にも泥酔したときにもうまく機能しないし、死期が近づけば混濁する。だから、それを生命活動の中心に据えることはできない。
生命活動の中心にあるのは自我ではない。生きる力である。それ以外にない。自我も主体も実存も直観もテオリアも超越的主観性も、生命活動の中心の座を占めることはできない。
鏡像段階の幼児が「自我」概念を獲得するのは、「自我というものがある方が、人間が生き延びる上では有利である」という類的な判断があったからである。
自我は生きるための一個の道具に過ぎない。

 

思想のくせ

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先週末、東京禅センターの「 科学と仏教の接点 」というシリーズ講演会へ行きました。

以前このブログに書いたことがありますが、仏教学者の佐々木閑先生がコーディネーターで、

物理学者やお医者や科学の世界の著名な方と、仏教界の先生方との対談シリーズです。

今回は惑星物理学者の松井孝典さんがお話しをされました。

普段あまり聴かないお話の内容なので、あちこち刺激されながら今回も充実の3時間でした。

 

その中で、富永仲基という江戸時代の思想家の名前が出て来たので、

家に帰ってから検索してみるといろいろと出て来ました。

ちょっと面白かったのはウィキペディアの解説の中に、

 

また、思想に現れる民族性を「くせ」とよんでこれに着目。

インドは空想的・神秘的、中国は修辞的で誇張する、日本は隠すくせがある、と述べて、

それぞれの文化を相対化し比較観察したことは、文化人類学的発想の先取りと指摘されている。

 

と書いてあった。

 

なんとなく、ぷふふ。

加藤周一著「三題噺」にも出てくるらしいので、これから読んでみようかな。

こんなブログも見つけました。

 

いやはや今も昔も世界には搭載エンジンがF1みたいな天才やら秀才やらがいるものだ、

とあらためて凡人な私は知らないことだらけを痛感した次第。

 

愛と情熱の人間

thanks rose

このブログの最初の方に、

 

花が存在するのではなく、存在が花する

 

というイスラム哲学の言葉に初めて出会ったと書いて、そこから 井筒俊彦さんの本を読んでみよう、

とのんびり書いていたのですが、

無知な私は知りませんでしたが、この井筒俊彦さんという学者はすごい方でしたね。

私が初めて読んだのは、「イスラーム哲学の現像」という本で、復刊待ちだったので手に入れたのは古本でした。

でもそのすぐ後に岩波新書に復活して、今は本屋さんで簡単に手に入ります。

 

「 意識と本質 」という著書は、このふたつの言葉だけで知りたいこととピッタリだと思って読み始めました。

西洋東洋の哲学や宗教の深く膨大な知識を駆使して、概念を体系化していくのですが、

究極的なことが明確で平易なことばで書かれていて、驚き感動します。 魔法のよう。

こんな私でも読める記述です。

 

それにしても本物の学者とは、なんと根気強く、なんと知を愛するエネルギーの強いことよ。

この宇宙の始まりを探る物理学者たちや、こうして知の体系を創っていく哲学者や芸術家たち。

情熱ですね。

 

それでもごく身近なわたしのフツウの生活の中でも、結局それを求めているのねということに多々出会います。

答えはないのだと知りながらそれに恋い焦がれ求め続けるのが、

人間という存在の、そもそもの在り様なのか。

 

ぷふふ。おもしろい。

 

 

宋海君先生の気功養生特別講義、延期になりました

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今日、予定していた宋海君先生の気功講座は、台風で延期となりました。

朝からずいぶん悩んで、先生とは決行しましょうということでご参加の皆様にいったんお知らせしたのですが、

お午に向けて風がかなり強まり、もしものことがあったら大変、と皆様の安全第一で延期の最終判断をしました。

 

いやはや、お天気には誰も勝てませんよね。

お時間を作って楽しみにしていて下さった皆様には本当に本当に申し訳ありませんでした。

嵐でも行く!と用意をしていたとメールを下さる方もいらして、

私が参加者だったら同じくそうだわと思いました。お気持ち、ありがとうございます。

が、やはり冷静な判断をしなくてはと、普段は突撃玉砕型の私ですが慎重になりました。

 

夕暮れ時に九段から戻ると、刻々と変わる感動的な空の色に出会いました。

朝からめまぐるしく変化する状況の渦に巻かれつつ、自分の感情も思考も上から下まで一式通過して着地してみれば、

あぁ今日は本当に良い一日だったと思えました。

 

さてさて今後ですが、海君先生はとにかく人気者であちこち飛び回っていてご多忙。

従って、次回の予定は来年2014年2月です。

そこまでスケジュールがいっぱいなのです!

でも皆様には必ずプロトマニアで海君先生との時間を過ごしていただけるように、

これから交渉がんばりますので、どうぞお楽しみに!