「私」を正しく扱う

 

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仏の 〈 道 〉 において修業するとは、あなた自身の「私」を正しく扱う修業をすることに他ならない。

あなた自身の「私」を正しく扱う修業とは、あなた自身の「私」を忘れることに他ならない。

あなた自身の「私」を忘れることとは、「外部」の物にあなたが照らされることを意味する。

物に照らされるということは、あなた自身の(いわゆる)自我と、

他の物の(いわゆる)自我との間の区別を抹消することを意味する。

 

道元禅師 「正法眼蔵」より

 

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まっさら

pakirarara

友だちから聴いたはなし。

私たちが見逃してしまうほどわずかな段差のある場所で、1歳半くらいの男の子の様子。

その子どもは私たちには平坦に感じるほど微妙な段差の際で立ち止まり、おそるおそる慎重にそっと足を下ろす。

降りてはくるりと向きを変えてまた元の場所に戻り、その段差を再びそっと降りる。

何度も何度もそれを繰り返す。

それは初めて地面に高低差があるということに遭遇し、それを学習していくようだったと。

 

赤ちゃんが生まれたばかりの時に「 自分 」なんてものはなくて、「私」という概念はなかったのだという事を思い出しました。

ひとつひとつこの世界のことを学んで、社会で生きられるように身につけていく交々。

ちょうど先日の青空禅フォーラムの伊東先生のお話を聴いて、

いかに私たちがたくさんの書き込みや刷り込みで生きて成り立っているかということをあらためて思ったところだったのです。

その書き込まれた情報がすべてで生きて行くのか、それとも視点を変えて別の世界にも開かれて生きるのか。

それ不思議じゃない?  と常識を疑って見る遊びをしよう。

 

門は常にそこにあって、見る角度を変えた瞬間、その門は開く

 

廓然無聖

何の区別もない、一物の影もない、また、ものに対してものを向こう側に見る自分もない世界。

この言葉は井筒俊彦さんの本で初めて知って、そのからりと晴れたような言葉のイメージに感動したものです。

青空禅で伊東先生が、禅宗の開祖といわれるボーディダルマの言葉としてこの「廓然無聖」を紹介されました。

なぜだかわからないけれど、私はこの言葉にものすごく魅かれます。

 

 

 

 

 

 

 

愛と情熱の人間

thanks rose

このブログの最初の方に、

 

花が存在するのではなく、存在が花する

 

というイスラム哲学の言葉に初めて出会ったと書いて、そこから 井筒俊彦さんの本を読んでみよう、

とのんびり書いていたのですが、

無知な私は知りませんでしたが、この井筒俊彦さんという学者はすごい方でしたね。

私が初めて読んだのは、「イスラーム哲学の現像」という本で、復刊待ちだったので手に入れたのは古本でした。

でもそのすぐ後に岩波新書に復活して、今は本屋さんで簡単に手に入ります。

 

「 意識と本質 」という著書は、このふたつの言葉だけで知りたいこととピッタリだと思って読み始めました。

西洋東洋の哲学や宗教の深く膨大な知識を駆使して、概念を体系化していくのですが、

究極的なことが明確で平易なことばで書かれていて、驚き感動します。 魔法のよう。

こんな私でも読める記述です。

 

それにしても本物の学者とは、なんと根気強く、なんと知を愛するエネルギーの強いことよ。

この宇宙の始まりを探る物理学者たちや、こうして知の体系を創っていく哲学者や芸術家たち。

情熱ですね。

 

それでもごく身近なわたしのフツウの生活の中でも、結局それを求めているのねということに多々出会います。

答えはないのだと知りながらそれに恋い焦がれ求め続けるのが、

人間という存在の、そもそもの在り様なのか。

 

ぷふふ。おもしろい。

 

 

アンテナ

rose cache

 

たとえば、いまここに一輪の花が咲いているとします。この花が花であること、つまり花の本性は、それ自体としては存在となんの関係もありません。こういう意味に解された花の本性を述語的には「本質」と言います。そしてもし、存在とは本来的に関係ない本質としての花が、それでも事実上いまここに存在しているとすれば、それは存在的エネルギーがどこか外から本質にたまたま生起してきたからである、とこういうふうに考えるのです。ですから、このような考え方によれば、存在とは本質にとって、ある不思議な偶成的な出来事なのです。で一体、存在はどこから生起してきて本質に宿り、本質を存在者に変貌させるのでしょうか。存在一性論者たちの存在論は存在についてのこの根源的問いから始まります。(井筒俊彦 著 イスラーム哲学の現像より抜粋)

 

私は井筒俊彦さんの本につい最近出会って、読み始めたばかりです。

本は読みすぎて文字や概念ばかりが頭に入ると頭の中が渋滞してしまうし、邪魔になることもあるけれど、

やはり確かに知識は助けになります。

ヨガをやる時に少し身体に関する知識があると感覚を掴みやすくわかり易く、

それが体感の支えになることがあり、これも大切にしたいと思います。

身の回りにある便利で新しい諸々は自分が主体になっていれば、

それを使えることがあっても、使われてしまうことはありません。

そしてアンテナに引っ掛かるものをとりあえずのぞいてみる好奇心も悪くはない。

 

狙いと方向を定めたら、まず中心を合わせてぶれない自己チュウで、

方便として気に入ったやり方を使っていけばいいのかなと思うのですがいかがでしょうか。