夏の空ー7月の終わり

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今日は7月最後の日曜日。

 

空が朝から抜群にきれいだった。

青空の青も、白い雲の白も、ちょっと曇った時のグレーも。

 

 

そして夕方の太陽の光は、ゴールド。

きらきらきら、と音がするんじゃないかと思うくらい、

その光で海が光っていた。

 

 

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ここにあるもの。

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朝の散歩で見つけた幸運のブタくん。

 

毎朝、散歩をします。

最近は朝の用事が増えてしまって、優雅な散歩ではありません。

でも、少しだけでも外に出るのが気持ち良いから、10分でも歩きます。

 

 

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幸い、近所に大きな公園があるので、蝉の大合唱を聴きながらてくてく歩く。

草の上を歩く時の足の裏の感触は、気持ちよいです。

 

 

 

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そして相変わらず、空を見上げては写真を撮ったりします。

 

 

 

こうしたことは、もうずいぶん以前から同じような事をしている気がします。

それがもっと早朝になったり、相棒犬が一緒にいたりいなかったりしながら。

見る、聴く、歩く、食べる、話す…ということは、

ずっと同じ事をしている、とも言える、と思ったりもします。

 

習慣やパターンに見える何かも、本当はたった今初めて起きている。

昔からこうだった、このパターンにとらわれている、

と思考がすぐに枠に入れてしまうけど、それは思考だから。

 

昔から何度も繰り返したことも、同じパターンもそんなものは実は無くて、

今、立ち止まってここにあるものが本当は何かを、素直に無邪気に見る。

 

そこにあるのは瞬間性だけ。

 

それがなかなか、見抜けない。笑っちゃうくらい(笑)。

 

でも、それはとても自由です。

 

 

 

死ぬこと、生まれること。

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このところ、遠くで近くで『死』に遭遇することが続いていて、

やはり感情は揺さぶられるのですが、

そのことを起点にすると全体が動いているのがはっきり見えます。全ては必然。

 

思春期に担任だった恩師が亡くなったという知らせ。

ふと、今の自分が考えている世界のことを話したら、

どんな会話ができただろうか、と考えました。

カトリックの学校だったので、担任はシスターだったのです。

見た目がねずみ男みたいで、早口で、ごくたまにしか笑顔を見せないけれど、

ニヤっと笑う笑顔はチャーミングで、密かな人気者だったと思います。

理性的で的確で、厳しいけれど深い愛情を持った立派なキリスト者でした。

 

 

亡くなったことを『帰天』といいます。

…やっぱり帰るってことなんだと、今の自分の思考の枠に入れてみます。

 

 

時系列の中の風景は思考が落ち着くけれど、それとこれは関係がない。

どんな素晴らしいヨガの達人も名医も、

どんなに悟った覚者も高僧も深い信仰に生きたひとたちも、

死を迎える。

 

それと同じくらい、

それとこれは徹底的に、ぜんぜん関係な〜い。

ということにほっとする。

死ぬことと生まれること、に促されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

永遠の自然落下

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私が解体という言葉を使うのは、あらゆる信念体系や持ち続けていた概念、振る舞いや人間関係の古いパターンがばらばらに崩壊するからです。あらゆるものを失います。本当のあなたを認識すれば、あなたがこれまで神聖かつ深刻で意味があるとしてきたものすべてを超越してしまうのです。でも、このすべてを失うという状況は果てしなく続きます。永遠の自然落下(フリーフォール)です。何らかの思考や感情、状況が生じるたびに、それも単なるエネルギーの流れであり、空(くう)の中に生じている感覚であり、自分にとってはそれ以上の意味がないことを、まるで初めて知るかのように理解します。あらゆる基準点は失われ続けます。

 

異議を唱える思考をよそに永遠で無限のの認識を生きるには、常にある種の勇気が必要だと思うかもしれません。常に何らかの経験や思考が生じる中で、何も留めておくことができないのを何回も何回も理解する勇気を持つことは可能です。どのような出来事の中にも、休息する場所はありません。この思考にもこの経験にも…。どのようなことが起きても、それによってあなたが何者か決まる訳ではありません。何回も何回も、自分は何も知らないことを理解します。

これは出来事のすべてに気づいていようと努力することではありません。なぜなら、努力は必要ないのですから。気づく努力をしたり、そう決意するような分離した私は存在しないことが分かれば、この世界は誰の関与も受けず自然に展開していることが歴然とします。一度その洞察を得れば、その後に起こることは次第にその洞察の光に照らされるようになります。

 

『愛の為に死す』ウンマニ・リザ・ハイド著  ゆるやかな解体 より抜粋

 

 

それは今に在る

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質問者

いったい、なぜ私は想像するのでしょうか?

 

マハラジ

意識の光が記憶のフィルムを通してあなたの脳に画像を投影するのだ。脳の欠陥と混乱のためにあなたが自覚することは歪曲し、好き嫌いの好みに色づけされてしまう。あなたの思考を秩序あるものにし、過度の感情的な意味づけから自由になりなさい。そうすれば、あなたは人びとやものごとをあるがままに、明晰性と慈愛をもって見ることだろう。

誕生、人生、死の観照者は同一だ。それは愛と苦痛の観照者なのだ。なぜなら限定と分離の存在が悲しみに満ちたものであるにもかかわらず、私たちはそれを愛しているからだ。私たちはそれを愛し、同時に憎んでいるのだ。私たちは争い、殺し、生命や所有物を破壊する。そしてそれにもかかわらず、私たちは愛情深く、献身的なのだ。私たちは優しく子供の世話をする。そして子供を捨てもするのだ。私たちの人生は矛盾で満ちている。しかし、それでも私たちはそれにしがみつく。この執着がすべての根底にある。その上それは完全に表面的なものだ。私たちは何かに、あるいは誰かに全力でしがみつき、そしてつぎの瞬間それを忘れてしまう。子供が泥だんごをつくり、軽い気持ちで捨て去ってしまうように。それに触れてみなさい。子供は怒りとともに泣き叫ぶことだろう。気をそらしてみなさい。彼はそれを忘れてしまう。なぜなら、私たちの人生はに在るからだ。そして人生への愛はに在るからだ。私たちは多様性を、苦痛と快楽の劇を愛している。私たちは対比によって魅せられているのだ。このために対立するものと、それらの表面上の分裂を必要としている。しばらくの間それを楽しみ、それから退屈して、純粋な存在の平和と沈黙を切望するのだ。宇宙のハートは絶え間なく鼓動している。あなたはその観照者であり、そのハートでもあるのだ。

 

『  I AM THAT   私は在る  ニサルガダッタ・マハラジとの対話  』より抜粋

 

ずっと以前、青空禅に来ていた女性から教えてもらったマハラジの本。

クリシュナムルティの時に負けないくらい(笑)、繰り返し繰り返し、

繰り返し読んで来たマハラジのことば。

賢者のことばは、読む度に、たった今初めて読むような驚きや瑞々しさがある。

自分はいったいどこを読んでいたのか、何を理解していたのか、という発見。

マハラジの言葉が、これほど愛に満ちていたとは!

 

 

 

「私」という想定を創作する思考は、敵ではない

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思考とは、あらゆる物事にラベルを貼って説明することにより、安心安全なものに

見せることなのです。

思考はこの上なく安心安全な想定、つまり「私」を創作します。この体の中には

「私の人生」や「私に」起きることをコントロールしている誰かがいる、

と想定するのです。

 

 

 

 

「あなた」や「私」という言葉でさえ、絶えず会話や書物で使われています。

想定されたこの「私」は、すべての経験や感情、その他の思考を「私のもの」

であるとか、「私」にとって意義があるとか主張します。

そのような想定の本質をよく見て、これは思考が枠を設けて限定しているに過ぎな

いことに気づいてください。この「私」も、枠をはめるためのひとつの思考に過ぎ

ないのです。本当のあなたは、決してひとつの思考の枠に納まるような存在ではあ

りません。

 

思考はいろいろと役に立っていますが、多くの人が考えているような熟達した

指導者ではありません。ただ手助けをしよう、すべてのことを知って安全なものに

しておこう、納得しようと努めているだけです。思考の本質を知り、思考は単に

その義務を果たしているだけなのに気づいてください。

それ以上でもそれ以下でもありません。

 

思考はこの現れの劇の中で、本当のあなたであるを知りたい、

反映したいと望みます。それは全部あなたのためにしていることです。

それでも、思考がそれ自身を超越したものを真に知ることは不可能です。

 

思考はこの劇の一部です。思考とは、姿や経験という限界あるものを通して、

がこの劇の中でそれ自身を表現するために使う道具なのです。

思考の本質を知れば、愛しさと感謝を持つようになります。

思考には限界がありますが、敵ではないのです。

 

 

『愛の為に死す』ウンマニ・リザ・ハイド著  思考の本質 より抜粋

 

 

ウンマニ・リザ・ハイドの本。

私はニサルガダッタ・マハラジが大好き(っていうのもおかしいけれど)で、

ハヌマーン(信愛と献身の猿の神様)のようなマハラジの言葉は、いつも一緒。

正直言うと、ラマナはあまりにも凄すぎちゃって文字通りことばがない。

ラマナから始めて、パパジ、ラメッシ、そしてひょんな時に、

マハラジを教えてもらった。

それ以来、マハラジは、先生(勝手に!)。

マハラジと質問者との対話は、なんとか理解できる(と言っても翻訳だけど)。

言葉に依存しないようにしているけれど、マハラジの言葉がずっと助けてくれた。

 

最近、何度目かの、クタクタヘトヘトです〜状態が続いていたのです。

グッタリ(内面の風景)土曜日、ふとあるお店の本のコーナーで手にしたのが、

 

『 DIE TO LOVE   愛のために死す 』 

 

うへっ! またまた愛かい?愛が好きね〜、と言われそうですが、

(愛って本質のことだよ)

ウンマニ・リザ・ハイド、というイギリス人ティーチャーの本でした。

探究を終わらせるための本。

読み進むと絶望的なのに、妙にホッとしていた。

 

彼女の雰囲気は、やや時代遅れのヒッピーの女の人的にゆる〜い感じなんですが、

綴られている言葉はぜい肉なしで、リアリティを感じながら読みました。

ネットで探してみたら、

ウンマニのメッセージは常にラディカルで、表現も直接的、しかも逃げ場を残さない手厳しいものです。が、半端で止めないということには、トニー・パーソンズに似た愛情も感じました。

と、ヒロさんのブログに書いてあるのを見つけました。

 

 

 

言葉で引っかかってしまって苦労するときもあれば、

ことばが手掛かりになって解けて行くコンガラガリもあって、

私にとってウンマニとの出会いは、

ウンザリ飽き飽きするほど聴いて来た言葉を追ううちに、

そのエネルギーみたいなものが知らぬ間に勝手に、

ズレたどうしようもなさを動かしてくれた、みたいな感じ。

 

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マハラジせんせい。