気づいているに気づいている

kidukinikiduku

 

この間、やれやれ、と思うことがありました。

初めて会った人のことを友人に話していて、

「あぁ、あのメガネをかけた人ね?」ときかれた私は、

「え? メガネ? かけてたっけ???」と言っていたのです。

その人がメガネをかけていたという認識が抜け落ちていて。

友人は目をまんまるくしてから、涙が出るほど大笑いしました。

見ていないにもほどがある!って。

やれやれ。( 村上春樹 風に )

 

よ〜く思い出してみればメガネをかけていた、確かに。

でも、私がその人を思い浮かべると、口元だけが印象に残っています。

対象物を見ているようで、そのままは見ていません。

聴いているようで、そのままは聴いていません。

思い込みと錯覚を、のびのびと生きています。

 

 

先日の青空禅フォーラムではいつものように、

私とは何か? どこにあるか? をいろいろな角度から検証。

 

「私」が対象を見て、感じます。つまり、対象に気づいています。

主体であるこの私こそが見ている、気づいている側だ、という信念をほぼ全員持っています、よね?

それは主体と客体、という二元構造です。

でも実は、主体は私だと思っているのは 錯覚 です。

この「気づき」こそが主体なのです。

全員 気づいているけれど、気づいているという状態に明白に気づいている人は少ない。

昔から覚者が言うように、全員が既に悟っている。

一瞬、それって素敵!と思いますよね。

ところが! 気づいている状態に気づくことからあっという間に離れて、

じゃあどうやって感じられるの? という問い(思考)にくっついて行ってしまう。

そして、「どうしたら?という旅」が始まってしまうのです。

だ か ら、やることはシンプル。

気づいている に かる〜く気づいている を練習しましょう。

 

伊東先生のお話はいつも丁寧で、

言葉で表現し難いニュアンスを表現することばのセンスが素晴らしい、

と常々思っているのですが、

この時は、

「主体と思っている私」のことを「 私 感覚 」

という言葉にされた。

… あ〜は〜!♡

 

言葉って本当に悩ましいですね。

ずっと無意識に使っている「私」とか、エゴ、自我という言葉には、

知らないうちにくっつけていたイメージがあります。

確固たるもの、堅く囲われていて枠がしっかりあるもの、分離独立した存在  …

「 私 感覚 」と置き換えてみたら、とたんに「私」に隙間ができました。

疑いもせずにあると思い込んでいたのは「私」じゃなくて、

最初からただの「 私 感覚 」だけだったのか〜 パチパチパチ!

 

ということで、

 

立ち位置は、この「 私 感覚 」じゃなくて「気づき」に。

 

気づいていることに気づいている。

対象、ものや何かに、ではなく、この「気づいているということ」に。

 

… ややこしいですか? 文章が下手くそすぎてなんだかわからない?

または、にやりと笑って、はは〜ん、と思いましたか?

さぁ、それではぜひ、2月14日(土)の青空禅フォーラム  にいらしてくださいな。

伊東先生の揺さぶりをダイレクトに、リアルに、ダイナミックに、

まずはプロトマニアで体験してみてください。

 

 

 

 

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