HUG !

hug

本屋さんでふと手に取った本。

パラパラと中を見て、友だちにプレゼントするつもりで買ったのですが、

 

あー、ワタシってこういうのに無茶苦茶弱いのだ。

 

体長2mを超えるホッキョクグマ、野生のシロクマと犬の交流の写真集。

この写真集のシロクマは、ハスキー犬をブリーディングしている牧場にやって来る。

その時シロクマはおなかペコペコ状態。

なのに、犬を襲うこともなく、食べちゃうこともなく、なんとなんと!楽しそうに遊び戯れ始める。

丹葉暁弥さんという大のシロクマ好きの自然写真家が、偶然に撮ったのだそうです。

 

ホントかい?

 

って思うような光景。

だってシロクマが犬をお腹にのせて、がしっとハグしているんですもの。

しかも、犬もシロクマも安心したように気持ち良さそうに目をつむって。

 

ウソでもホントでもそんなこと、どちらでもいいや。

目の前に広がる現れは、内面を映し出している。

 

これらすべてを在らしめているなんて、存在はすご過ぎる。

Love !

 

 

「  HUG !  friends  」

撮影:丹葉暁弥  物語:ひすいこたろう  小学館

 

 

 

 

 

 

 

 

Simple !

shibauraburidge

ひとりで仕事を始めた頃に、食いしん坊の友人に連れて行ってもらった焼き鳥屋さんがあります。

そこは知る人ぞ知る焼き鳥屋さん。

店構えはごく普通の街の焼鳥屋さんですが、出てくる焼き鳥が繊細にして、絶品、客層もよし。

そして店主がとにかくプロフェッショナルで本物で粋でカッコ良い。

友人が独り立ちした私への応援のつもりで「商売下手なのでよろしくお願いします」と紹介してくれて以来、

企画展の度に、がんばってね~とメッセージをいただいたり、たまに見に来てくださったりしています。

私は一年に一度お店に行く程度なのですが、有難いことに交流は続いています。

いつだったか、いつもの焼鳥屋店主の姿ではない普段のいでたちを見て、

 

あ! ルパン3世!

 

と思ったから、そんな人物を想像してくださいね。

 

さて、とても久しぶりにその焼き鳥屋さんに行きました。

お仕事絡みだったので、私は相づちを適当に打ちながら、食べては店主のお仕事の手元を鑑賞しておりました。

仕事絡みというといろいろありますよね。

そう、複雑に考え過ぎたり、気を遣い過ぎちゃうこともあるんです、本当はシンプルなのに。

そんな夜だったのでした。

店主は帰りにそっと私におみやげを手渡してくれました。

 

翌日お礼のメールをしたら返信があって、

 

みんなの心と身体を健康に、元気にしてね

 

とありました。

とってもシンプルなこのことば。あ、そうか、と伝わってきた。

 

みんなのこころとからだを元気にする、ということは、

教えてあげる、でもなく、助けてあげる、でもなく、癒してあげる、でもなく、あるがまま起こる。

私が店主の焼いた焼鳥の美味しさで元気になるように、それは勝手になっていくものだ。

自分の中心を信頼して真ん中にとどまれば、それは勝手に広がって繋がっていく。

意図するマインドは邪魔をする。

だから私は、ただあるがままのこころばえを磨こうと思ったのでした。

 

 

 

 

 

 

 

ただ流れ去る

pietrasanta

記憶は脳がねつ造したりするから、不確かなものです。

いつのまにか脚色されて、真実から離れていく。

変形した記憶とて、それはひとつの真実なのかもしれません。

一枚の絵ハガキや、朝の匂い、甘いジャムを一口食べた瞬間、

急に甦る、そしてあっという間に過ぎて消える記憶。

ただ流れ去る。

 

ばいばい、記憶。

 

 

 

 

 

ただ幸せで

dal1264

 

この週末はプロトマニアのブログを整理して新しいスタイルに変更!、

8月からの予定を分かりやすく読みやすく変えて…とかとかとか、と思っていたのに、

土曜日の午後はどうにも眠くて眠くて怠くて怠くて、夕寝はするわ早寝はするわでパソコンを開けることすらできなかった。

今日は朝からたまっていた掃除を始めたら、あっという間に夕方になってしまいましたとさ。

こんなどうにも思うように進まないごく当たり前な一日も、なんだか幸せな気がする。

 

芸術は本質へ戻る通路

 

nightdriving

プレザンス より

 

言い換えるなら、芸術の目的は、分離した内側にある自己の中心に横たわる傷、つまり、

私たちは断片であり、分離した内側にあり、体に閉じ込められ、

見ず知らずの敵対的な世界と断続的に散発的にやりとりをし、無力さ、迷い、怖れを感じ、

そして死ぬことを運命づけられているのだという、この信念と感情を癒すことにあります。

 

それはつまり、体験的なやり方で私たち本来の状態、私たちはすべてと親密にひとつであることを知り、

感じている自然な状態に還ることです。さらに言うなら、ひとつになるための分離した内側にある自己は存在せず、

独立した対象物、他者、世界もないということを体験的に明らかにすることです。

そこにはひとつの、つなぎ目のない親密な全体があって、それは常に動き、変化し、けれどいつも同じでここにあり、

体、心(マインド)、世界のあらゆる体験という形をとりながら、いつでもそれ自体であるのです。

 

画家セザンヌは、「世界の生における一瞬が過ぎていく。その瞬間の真実を描き、すべてを忘れる。

その瞬間になり、敏感な受け皿になる。見ているもののイメージを与えるため、それまでに起こったことすべてを忘れる」

と言いました。

 

その瞬間になり、その瞬間として、瞬間から瞬間への体験の全体としての自己を知り、

その瞬間とすべての瞬間の要素としての自己を知り、芸術家として「イメージを与える」こと。

つまり、この理解を運ぶ何か、運ぶだけでなく伝え届ける何か、慣例的な二元的視点を通り抜け、溶かし、

この体験的な理解を喚起する力を秘めた何かをつくること。

セザンヌは、形はないけれど常にここにある体験の現実を、ぎりぎりのところで形としてすくい上げた作品を残しました。

それは、パルメニデス、ルーミー、クリシュナメノンなどが言葉であらわしたものと同じです。

 

芸術家のやり方は、知覚を通じてのものであり、哲学者は思考を通じて、帰依者は愛を通じて同じことをします。

 

~~

芸術は、私たちの文化に根づいている不定愁訴、つまり、孤独、絶望、分離の感覚、そして愛への渇望を癒してくれます。

私たちは芸術作品をただ見るのではなく、それに参加するのです。

芸術の本質とは、私たちが拒絶した世界、他なるものであり、分離し、

生命を失った物質でできていると見なした世界を、近くに、親密なものとして取り戻し、

私たちの自己がそれとひとつであると知ることです。

 

 

「プレザンス 安らぎと幸福の技術」第1巻  ルパート・スパイラ著 より抜粋

 

わかっちゃった?

wakacchatta

 

『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』

 

という本を読んだ。

あー、なんだかスカ〜っとした〜!!

 

 

第3章 オーストラリアはない

〜 いろんなことが起こって、マインドはその意味をつかもうとする。それがマインドの仕事だから。

マインドは意味づけをして、理屈づけをして、原因を探って、なぜかとか、それはこうだからとか、いろいろこねくり回すんだ。

それがマインドがすること。実際は何も見当もつかないのに。どんなこともただ起こっているだけなんだ。ただ単に。

マインドが割り込んできて「これはこれを意味するに違いない。あれは間違いなくそういう意味だな」とか何とか言うこともある。

それはすらすら出て来る(来る来る!注:私の声)ほんとうに何の苦もなく簡単に出て来る。

それがマインドのすること。マインドはいつだって理解しよう、知ろう、解き明かそうとする。そういうことを全部しようとする。

生き残ろうとしながらね。マインドがしようとしているのは、自分が生き残ることだけなんだ。マインドがしていることといったら、

マインド自身を守ろうという、それだけ。まるで安全じゃないみたいに。それに、自分がコントロール主体ですって感じで。

実際は全然違うのに。

結局それが伝えたいことだね。僕らはコントロールしていないんだってこと。自分でコントロールしてると思い込んでるよね。

自分で選択してると思い込んでる。自分で決めてると思い込んでるんだ、でもそれは見かけ。

すべてただの見かけなんだ。これは夢から目覚めるってこと。夢の中にね。