万物斉同

kirin

お友達に勧められて読んだ本。

玄侑宗久さんの「荘子と遊ぶ 禅的思考の源流へ」から。

ちょっと長いけど。

 

人間が主観による勝手な判断をやめれば、どんなものにももともと然るべき可いところが具わっているのが分かるだろう。奇っ怪な喩えかもしれないが、たとえば小さな木の茎でも大きな柱でも、あるいは癩の病の人だろうが絶世の美女の西施だろうが、道の立場からは斉しく一つということになる。ある人々からは分散と見えることも別な人々には完成と見え、同じことを完成と見る人もいれば破壊と見る人々もいる。およそすべての事物は、完成とか破壊という人間の判断以前に一様な一つの変化の過程なのである。ただ道に達した人のみがこのことを知り、自らの勝手な判断を用いず、変化のままに平常なこと(=庸=ありきたりの自然さ)と受けとめていく。

(中略)

徳充符篇によれば、あるとき恵施が荘周に訊ねる。

「人間というのは、もともと情がないものなんだろうか?」

すると荘周は「そうや」と答える。

「え? 人間に情がなかったら、いったいどうしてそれが人間と言えるんだい?」

「自然の道理で(人間の)容貌が与えられて、また天によって(人間の)からだの形が与えられてるんやし、そりゃあ人間にきまってるやないの」

「だから、それだったら情もあるはずだろう」

「ああ、それは儂(*わし)の言っている情とちゃうで。儂がさっきから「情なし」言うてるのはやな、なにかを好いたり嫌ったりすれば必ず我が身の内も傷つくわけや。そないなことはせんと、いっつも自然にあるがままに任せて、自分勝手な判断で贔屓したりせえへんっちゅうこっちゃ」

「好いと思うことを積極的にするんじゃなかったら、どうやってこの身を保つんだい?」

「せやから道から戴いた容貌と天から戴いた形だけで、そのもちまえに従ってりゃええのよ。そのうえ好きだ嫌いだ言ってたら結局我が身を傷つけるんやて。あんたもそないにこころを外にばっかり向けて精根疲れさせたり、樹に寄りかかって呻いたり机にかじりついて眠ったりしてたらあかんで。自然はちゃんとあんたにも人間としての形与えてくれはったんやし、「堅白石」なんて詭弁こかんとき」

(中略)

すべてを受け容れられずに是非好悪を論じることは、ロジックを競い合う面白さはあるとしても、結局自らのいのちの全体性を傷つけることなのだ。

 

ほんとに、なるほど、むふふ。

自ずから然り。

生きることも、しごとも、オシャレも、芸術もお料理も、

深刻になったらアウト。

 

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