修業をめぐる考察

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私は中学生の時に剣道部に入ったことがあるのですが、

基本の裸足のすり足があまりにも痛くて、あっという間にしっぽを巻いてやめてしまいました。

私はおよそ修行的なことは苦手。

小さい頃バレエを習っていましたが、そのバレエ教室はのんびりして人と競り合うというような空気は全くなく、

年齢も学校も違う様々な環境の友達との間で、お世話をされたり、したりしながら学んだお稽古ごとのおかげで、

ごく自然に上下関係やその場に適する身の処し方を習得したかもしれません。

 

東京駅近くの本屋さんで内田樹さんの「 修業論 」という本が目に入り

面白そうなので買って読み始めましたが、これ、おもしろいです。

合気道の武道家であり、思想家である内田樹さんはご存知の通り幅広く人気のある存在ですが、

なるほど文章が平易で面白く読ませ、今の私がうんうんと頷くところがいろいろありました。

 

本質は何かと問いながらいつも思っていたことは、知性だけでも感性だけでも足りないということでした。

考えたり理解しようと本を読んだり人の話を聴くばかりでわかっても、それはわかったに過ぎない。

わかることとそうであることは全く違うもの。

そうであることは、厳密に言えば感覚でもなく言葉にはならないことですが、

ひとまず外から入った知識や情報を丸ごと飲み込んでその後自分で咀嚼する、

つまり理解と感知して腑に落とすところまでいかないと

そうであることへの門の前には立てない。

自分のことばで語ることができなければ、それはただ、わかった程度のものでしかない。

理知は身体に落ちないと定着せず、その先へは行けない。

ヨガで習ったように、

まずは真似して、その後自分のやり方を見つけて、最後はその自分からすら離れる、という道程でしょうか。

そんなことを最近あった出来事やこの本を読みながらつらつらと考えました。

 

内田さんの本で今日気に入ったところ。ちょっと長いけれど。

 

先行する解釈は、後に出てくる、より包括的で、より整合的な解釈に、部分的に妥当するローカルな法則として生き残ることをめざせばよい。だから、修業者は、どれほど未熟であっても、その段階で適切だと思った解釈を断定的に語らねばならないのである。
どうとでも取れる玉虫色の解釈をするということを、初心者はしてはならない。どれほど愚かしくても、その段階で「私はこう解釈した」ということをはっきりさせておかないと、どこをどう読み間違えたのか、後で自分にもわからなくなる。
多義的に書かれたテキストには、腰の引けたあやふやな解釈をなすべきではない。それはテキストに対する敬意の表現ではなく、「誤答すること」への恐怖、つまりは自己保身に過ぎない。

 

私たちは「そういうもの」がまるで自然物のように自存するかのように言葉を使うが、それは違う。「自我」などというものは、とりあえず鏡像段階以前の幼児には存在しないし、睡眠中にも泥酔したときにもうまく機能しないし、死期が近づけば混濁する。だから、それを生命活動の中心に据えることはできない。
生命活動の中心にあるのは自我ではない。生きる力である。それ以外にない。自我も主体も実存も直観もテオリアも超越的主観性も、生命活動の中心の座を占めることはできない。
鏡像段階の幼児が「自我」概念を獲得するのは、「自我というものがある方が、人間が生き延びる上では有利である」という類的な判断があったからである。
自我は生きるための一個の道具に過ぎない。

 

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