まっさら

pakirarara

友だちから聴いたはなし。

私たちが見逃してしまうほどわずかな段差のある場所で、1歳半くらいの男の子の様子。

その子どもは私たちには平坦に感じるほど微妙な段差の際で立ち止まり、おそるおそる慎重にそっと足を下ろす。

降りてはくるりと向きを変えてまた元の場所に戻り、その段差を再びそっと降りる。

何度も何度もそれを繰り返す。

それは初めて地面に高低差があるということに遭遇し、それを学習していくようだったと。

 

赤ちゃんが生まれたばかりの時に「 自分 」なんてものはなくて、「私」という概念はなかったのだという事を思い出しました。

ひとつひとつこの世界のことを学んで、社会で生きられるように身につけていく交々。

ちょうど先日の青空禅フォーラムの伊東先生のお話を聴いて、

いかに私たちがたくさんの書き込みや刷り込みで生きて成り立っているかということをあらためて思ったところだったのです。

その書き込まれた情報がすべてで生きて行くのか、それとも視点を変えて別の世界にも開かれて生きるのか。

それ不思議じゃない?  と常識を疑って見る遊びをしよう。

 

門は常にそこにあって、見る角度を変えた瞬間、その門は開く

 

廓然無聖

何の区別もない、一物の影もない、また、ものに対してものを向こう側に見る自分もない世界。

この言葉は井筒俊彦さんの本で初めて知って、そのからりと晴れたような言葉のイメージに感動したものです。

青空禅で伊東先生が、禅宗の開祖といわれるボーディダルマの言葉としてこの「廓然無聖」を紹介されました。

なぜだかわからないけれど、私はこの言葉にものすごく魅かれます。

 

 

 

 

 

 

 

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