gentle eye

matterhorn

今朝、ふと目の前に広がった風景に思わず、

 

あぁ!

 

という音が口から漏れました。

その あぁ は、そのすぐ後に 私 が、「 美しい 」 という言葉に変換するのですが、

美しい という前の あぁ こそが  それ なのだな。

 

目の前で起きる現実も自分の内面の感情や思考も、どんどん 毎瞬 変わり流れ去って行く。

あの時の あぁ こそがそれそのものだったのだ。

それを一瞬にして変換してしまって、もうそれは全く別のもの。

 

あるがままに とは ただ在る ということだよ、とその gentle な瞳が語っていた。

 

そのままでいたいけれど、そのままでいる、そのままである、ということはありません。

そもそも人は根拠などなく生まれ来るのだ。

あると当たり前に思っている自分に、根拠はありません。

あると思っている自分があるとすれば、他者との関係においてのみある。

他者との関係によってのみ成り立つ自分。

 

ただ在る

gentle

ということばがふと浮かびました。

 

Don’t run after projections on the screen, be very wise.
Do not lose your peace at any cost.
Things will rise and fall, so not do be caught !
Peace is most important, you have to be happy in the Lila,
no-mind-limitless-happiness with Freedom in your mind,
not problems.

Remove all becoming, You are Being.
Becoming is effort, Being is no effort.

You are always That so be like the breeze
that is attached to neither the garbage nor the garden
that it blows over.

 

SRI H.W.L.POONJA

 

 

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調息

kactus

緊張と弛緩。

ヨガでやっていることといえば、緊張と弛緩を繰り返して弛緩、つまりゆるむ、くつろぐ深度を深くしていくことです。

その時に呼吸はとても大切。

私たちは普段あまり意識して呼吸をしていないけれど、呼吸を整えることはいろいろと良いことがありますよ。

慌てていると全体が見えないから、深呼吸して緊張を解く。 すると視野が広がる。

特に吐く息が大切です。 意識的にふーっと吐いてみて。

ほら、吐き切ると自然に吸っていますよね。 

だから吸うことよりも、吐くことを意識してみてくださいね。

 

私が好きなヨガの呼吸法に、蜂の羽の音の呼吸法というのがあります。

正式なやり方は長くなるので省きますが、ハミングをするように音を出して呼吸します。

まず、両手で軽く目を覆って自分の内側に意識を集中します。

この時、耳の前部にある突起に親指をおいて軽く耳を塞ぎ、残りの4本指で目の上をそっとカバーしてくださいね。

それからまず息を吐いて、吸って。 

そして次の吐く息で、ん~~~~っと口を閉じだ状態で鼻から顔全体に音を響かせながら息を吐き出します。

吐き切ったらまた鼻から吸って、再び ん~~~~~っと音を出します。 これを繰り返します。

音の高さをいろいろ変えて自分の好きな音程を楽しみます。

 

この呼吸法は、外側にバラバラと散らばる意識を集中させたり、不眠に効果があるそうですよ。

何より音を出すと自分のからだが楽器になっているように音とからだが共鳴して楽しいです。

そしてリラックスします。 さらに繰り返すうちに、あ!なんと呼吸が深くなっています。 

なんて素敵 !

 

悩める心も漠然とした不安も憂鬱も厭世観も、このからだが舞台です。

その状態は身体に現象化しています。 

からだも心も病んだ時には内臓が硬くなったり、胸が緊張したり、冷えたりしています。

だから、お風呂に入って温めたり、ヨガをしたり、良い香りのアロマオイルでマッサージしたりして、

まずはこの緊張を楽にして快適にしてやればよい。

そして呼吸。

調息というのはいつでもどこでもできます。

イライラしたりプリプリした時、緊張して上がってしまった時、頭から悩みごとが離れない時、

ふーっと息を吐いてまずはからだを緩めましょう。

ひと呼吸おけば、ちょっとゆったりした見え方、対応ができますものね。

そして呼吸法を使うとお腹があたたまって、ホッとします。

子どもの頃、お腹を撫でてもらうと気持ち良くて眠くなったように、呼吸で内臓をマッサージして温めてくださいね。

 

 

雨の日のことば 2

letter

私が折に触れ助けられたのは、インドのパパジです。

そのパパジの先生、ラマナ・マハルシのことば。

 

沈黙は真の教えてある。それは完全な教えである。

それはもっとも熟達した探究者にのみふさわしい。

他の者にとって、それから完全なインスピレーションを引き出すことは不可能だ。

それゆえ、彼らは真理を説明するための言葉を必要とするのである。

だが、真理は言葉を超えている。それは説明を許さない。

言葉にできることは、ただそれを指し示すだけである。

 

沈黙は絶えず語っている。

沈黙は話すことによって妨げられてきた絶え間ない言葉の流れである。

 

 

あるがままに ラマナ・マハルシの教え  より

自ら立つ

rosehorse

 

 

何かを誰かから学んでいる間、

師にあたるその人その考えを信じてやり続ける。

それでもある時からは自分で歩いて行く時が来る。

芸術でも武術でも学問でも、ヨガでもそうです。

 

私の周りには、それを見事にやって行く人たちがいて、

すごいなと思います。

きっと師に対しての思いや、離れて行くことへの不安やいろいろな思いがあると思います。

それでもそうやって自立して行って初めて、師の存在の有り難さがわかるのだと思います。

私もそうやって、とてもお世話になった人たちから自立して来たと思います。

ある時期は夢中になっているけれど、ある日ふと違和感を感じる時が来て、

それは旅立ちのしるし。

 

時が来ると自然と離れざるを得ない出来事が起きたりします。

それはきっと木から実が落ちるのと似ているのかもしれません。

動物の親が時期が来ると子どもを自立させるのと似ているかもしれない。

人間だけが人間に執着して、本当に手放すべき時に手を放せなかったりします。

 

本質を求めながら、本質から最も遠いことにとらわれること。

求めれば求めるほど、無理があること。

本当はそれそのままでそのものなのに。

でもひと通りやってみないと気がつかないし、そこへは辿り着けなかっただろう。

自分が深いところで本当に求めているものは何なのか、それをある時、正直に自分に問う時が来ます。

 

創造とは

sundaymorninggg

 

 

人はエゴの欲望だけで現実を創造しているのではありません。

自分の ” 存在 ” の深い魂の衝動に助けられながら、創造しているのです。

 

バーソロミューより

 

ことばのむこう

timeflys

今朝、交差点でお散歩中の犬と飼い主に目が止まりました。

犬はしきりにある場所の匂いを気にしてその場を動こうとしません。

飼い主はグイッとリードを引っ張って歩き出そうとしますが、犬は首を引っ張られながらも匂いを嗅いでいて、

飼い主は仕方なくその犬を見つめて待っています。

犬は言葉を話さないけれど、はっきりと自分の意志を示しています。飼い主は犬の意志を受け入れています。

犬も人間も生命が宿るものとしてみれば同じだなぁとそれを見ながら思っていました。

人間には言葉があり理性があるので犬よりはスペックが複雑、しかしそれは人間という生物の在り様で、良いも悪いも上も下もない。

 

インドの仏教の考え方では動物までは生命があるから動物を食べてはならず、植物にそれはないから食べてオーケー、

そういうわけで仏教者はベジタリアンで、動物を食べませんが植物は食べるのだそうです。

日本には草木にまで生命があり仏性があると考える。まして動物の成仏は当然。

インドという土地や歴史・気候が作った考え方と日本の風土が作った考え方。

あるものの見方や考え方は、その歴史風土に合ったカタチで長い間に作られ、ある点から見ればそれは整合性があるけれど絶対普遍ではない。

 

これまで洋の東西を問わず人間の本質について書かかれて来た本や教えをあれこれ読む時、

私たちはそのままそれを読んで鵜呑みにするとかその通りにする、そうなる事を目指すなんてことはできません。

青空禅の伊東先生がおっしゃっていましたが、時代も環境も違うから同じようにはならないし、出来ない。

絶対普遍は、言葉でというより、エッセンスで伝わる。

私たちに出来ることは、そのエッセンスをつかむこと、汲み取ること。

それは理解というより、キャッチするセンス。

書かれたことばを理解するのではなく、言葉にとらわれずに感じ取るセンス。

 

人と人の出会いはありがたいもので、いろいろな可能性に気づくことが出来ます。

例えば誰かを好きなったら、最初はその人のことをまるごと好きになって夢中になっているけれど、

段々と現実的になって少しずつ相手への批判が生まれます。

相手への要求が高まって不平不満もいっぱい、自分のことは棚に上げて(苦笑)。

それでも好きになったり嫌いになったりしながら人間はなんとか関係を維持していきます。

そんなシーソーみたいな繰り返し。

その繰り返しに、もうウンザリと思うこともあるけれど、

肉体を持った人間であればこそのシーソーであって、けっして悪いばかりではありません。

人間って愚かだなぁとか、どうしようもないなぁとか、思うことしばしばあれど、

人間はそれでも素晴らしいという希望、承認、愛情はいつもどこかにあるのです。

これまたシーソー。シーソーがあればこそ可能性に気づける。

繰り返しているうちにいつの間にかシーソーの真ん中で微笑んでいたりして。

 

自分の中に初めて愛が生まれた時のあの感じを思い出すと、そんな愛が自分にあること自体に感動してしまいます。

好きになったり嫌いになったり、勝ったり負けたり、怒ったり笑ったり…

それ自体が悪いのではなく、その見方や感情に固定してとらわれてしまわなければ良いだけ。

どちらでもいいではなく自分の意見を持て!と教育されて来たので、

自分の見方や考え方を主張することが良いことだと思って来ましたが、そのためにずいぶん余計なエネルギーを費やして来ました。

でも、本当はどちらでも良い、ありのままで良い。好きになったら好きになったのでよく、嫌いになったら嫌いになったのでよい。

良寛さんもそう言っていたものね。

 

昨日、思考いっぱい派の私にも、ちょっといいことがありました。

長いこと繰り返し頭を抱えて来た問題に対して、

それでもあれほど素晴らしい時間を過ごせたことに本当に感謝だわと、気がついたら勝手にそう思っていたのです。

ふふふん、シーソーがちゃんと動いている。

大きな普遍の愛と同じように、感謝のような身の回りのささやかな愛情を大切にしたいです。

 

あきらめる

fall

諦める

あきらめるっていうことは、

 

つまびらかに見ることだ、

 

と南直哉さんが話していたのをずっと覚えている。

いま自分がどうなっているのかを一つずつ冷静に見るということ。

明らかに見る。

消極的な行為のことではない。

 

今の苦しみがいずれはなんとかなると思っていろいろやってみても、

なんともならない。

だったら、自分がどうなっているかを明らかに見て、次へ行く。

覚悟を決めて、賭けるだけ。

 

修業をめぐる考察

ringring

 

私は中学生の時に剣道部に入ったことがあるのですが、

基本の裸足のすり足があまりにも痛くて、あっという間にしっぽを巻いてやめてしまいました。

私はおよそ修行的なことは苦手。

小さい頃バレエを習っていましたが、そのバレエ教室はのんびりして人と競り合うというような空気は全くなく、

年齢も学校も違う様々な環境の友達との間で、お世話をされたり、したりしながら学んだお稽古ごとのおかげで、

ごく自然に上下関係やその場に適する身の処し方を習得したかもしれません。

 

東京駅近くの本屋さんで内田樹さんの「 修業論 」という本が目に入り

面白そうなので買って読み始めましたが、これ、おもしろいです。

合気道の武道家であり、思想家である内田樹さんはご存知の通り幅広く人気のある存在ですが、

なるほど文章が平易で面白く読ませ、今の私がうんうんと頷くところがいろいろありました。

 

本質は何かと問いながらいつも思っていたことは、知性だけでも感性だけでも足りないということでした。

考えたり理解しようと本を読んだり人の話を聴くばかりでわかっても、それはわかったに過ぎない。

わかることとそうであることは全く違うもの。

そうであることは、厳密に言えば感覚でもなく言葉にはならないことですが、

ひとまず外から入った知識や情報を丸ごと飲み込んでその後自分で咀嚼する、

つまり理解と感知して腑に落とすところまでいかないと

そうであることへの門の前には立てない。

自分のことばで語ることができなければ、それはただ、わかった程度のものでしかない。

理知は身体に落ちないと定着せず、その先へは行けない。

ヨガで習ったように、

まずは真似して、その後自分のやり方を見つけて、最後はその自分からすら離れる、という道程でしょうか。

そんなことを最近あった出来事やこの本を読みながらつらつらと考えました。

 

内田さんの本で今日気に入ったところ。ちょっと長いけれど。

 

先行する解釈は、後に出てくる、より包括的で、より整合的な解釈に、部分的に妥当するローカルな法則として生き残ることをめざせばよい。だから、修業者は、どれほど未熟であっても、その段階で適切だと思った解釈を断定的に語らねばならないのである。
どうとでも取れる玉虫色の解釈をするということを、初心者はしてはならない。どれほど愚かしくても、その段階で「私はこう解釈した」ということをはっきりさせておかないと、どこをどう読み間違えたのか、後で自分にもわからなくなる。
多義的に書かれたテキストには、腰の引けたあやふやな解釈をなすべきではない。それはテキストに対する敬意の表現ではなく、「誤答すること」への恐怖、つまりは自己保身に過ぎない。

 

私たちは「そういうもの」がまるで自然物のように自存するかのように言葉を使うが、それは違う。「自我」などというものは、とりあえず鏡像段階以前の幼児には存在しないし、睡眠中にも泥酔したときにもうまく機能しないし、死期が近づけば混濁する。だから、それを生命活動の中心に据えることはできない。
生命活動の中心にあるのは自我ではない。生きる力である。それ以外にない。自我も主体も実存も直観もテオリアも超越的主観性も、生命活動の中心の座を占めることはできない。
鏡像段階の幼児が「自我」概念を獲得するのは、「自我というものがある方が、人間が生き延びる上では有利である」という類的な判断があったからである。
自我は生きるための一個の道具に過ぎない。

 

いい気持ち

whity

何度も繰り返し読んでいる本の同じ文章の意味が、

ある時それまでとは全然違って、視界がふわぁっと開けるように自分の中でわかる、染み込む…

そんな体験をしました。

似たようなことはこれまでにもあるにはあるけれど、

今回はまるでそれが生命を持った魔法の本のように思えます。

 

受け取るひとによって世界は全く違うものになる。

 

とても穏やかで、あぁ いい気持ち。

ニッコリ。

 

 

目に見えないけれどわかること

megamiagain

雨の日曜日は、遠藤浩子さんの 「 バッチフラワーレメディ入門 」 でした。

大雨の中、ご参加くださった皆さま、ありがとうございました。

 

バッチのフラワーレメディは、いろいろなマイナスと思われる感情が沸き起こった時に、

植物の持つエネルギーの助けを借りてその感情に気づいたり、向き合ったり、

流したりするという植物のバイブレーションを使った癒しの方法。

38種類のレメディの中からその感情に合うものを選んでいくのですが、

お手軽にこうなりたいからその効果があるレメディを選ぶ、のではなく、

まずは 「 今ここ、この瞬間の正直な自分」 を見て、それを選ぶ、つまりありのままの自分と向き合うところがいい!

それが嫉妬だったり、短気だったり、不安だったりするとそんな自分を認めたくないと思ってしまうけれど、

選ぶのは自分自身だから誰に遠慮することもありません、まずはそこからね と始まります。

自分に対して、無理やりではなく客観的になることができます。

詳しくは第二弾のワークショップの時に浩子先生から聴いていただくとして、

これはドイツなどでは保険診療の対象にもなっていて、

80年以上安全に使われて来た整合性のあるものなので、植物エネルギー?バイブレーション?と怪しむ方も(笑)、

ぜひ一度、お話を聴いてみてくださいね。

プロトマニアお得意の、馬には乗ってみよ、ひとには添うてみよ、です。

 

私がしばしば言うエネルギーは何かというと、ひとことで言えば  「気分 」 みたいなものでしょうか。

昨日しみじみ思ったのですが、いくらポジティブなことを言ったり教えたりしていても、

そのことを伝えている人自体のエネルギーがそうでないと、聴いている方は何かチグハグな感じがするんですね。

その人が発する言葉や情報と受けた印象が違う。 だから伝える人のエネルギーこそ、大切だなと感じました。

遠藤さんはご本人が爽やかでなによりニュートラルなので、

それが情報つまりレメディの内容をシンプルにそのままバランスよく運んでいるのだと思います。

 

「 癒す 」 ことは「 癒される 」 ことでもあります。

私は昔から心理学にも興味があって河合隼雄さんの本をよく読むのですが、

カウンセラーやセラピストのような人間と向き合う仕事は本当に大変だなと思います。

 

ところで、カウンセラーは 「 いいよ 」「 大丈夫よ 」 と受け入れてくれてはいるのだけれど、姿勢が厳しいというのはクライエントも感じます。 「 厳しい 」というのは、「 しっかりやれ 」というようなこととは違います。
自分を受け入れてくれているけれど、この人は甘く生きてはいない、背筋を伸ばして生きている人だというのを、クライエントは感じます。
ところが、こちらがの背筋がしゃんとしていないと、クライエントもそれを感じて、一緒に落ちてしまうことにもなるわけです。
「 自分の姿勢を貫く 」 ―  これは、言うのは簡単ですが、実行するのはなかなか大変です。
「 できることはできるが、できないことはできない 」 ということを明確にする。 その筋がどれだけしっかり通っているかが非常に大切なことです。 繰り返しになりますが、カウンセラーは母性と父性の両方をもつことができるように自分を訓練していくことが大事です。 これは女性であっても男性であっても、努力すれば必ずできることです。

「 河合隼雄のカウンセリング講話 」より抜粋

 

河合隼雄さんは、ここにご紹介した本の中で芸術とカウンセリングや禅仏教とカウンセリングについてもお話されています。

これは経験に基づいた冷静で温かく人間と全力で向き合った智慧が書かれていると思います。