感情、思考はやって来ては去るだけ

moon0813

エスカレーターを登りながら、お父さんに抱っこされて顔を真っ赤にして泣いている子どもの横を通りました。

久しぶりに見た、思い切り泣くコドモ。

ありゃりゃ、本当に全身が感情のかたまりだ。

子どもはそうやって感情を発散させている。それだけ。

感情に、想念やドラマをくっつけて苦しむのは大人。

 

以前、なんだか無性に悲しくなり、

悲しいことがあったわけでもないのにな、と友達に言ったら

「 それはただ疲れ過ぎているんだよ、うまいもんでも食べたらなおるよ 」

と言われました。

確かにその時はいろんなことが目一杯で、心身共にもうクタクタだったのです。

悲しいのはヘトヘトだったからかと思ったら、まず気楽になりました。甘いチョコレートを食べたら悲しいのは消えた。

 

先日から読んでいる解剖学者の三木成夫さんの本に、

「内臓不快」が人間苦の究極の ”引き金” というところがあります。

 

私ども凡俗は、仏の教によりますと、けっしてこうはいかない。空腹が「縁」となって、それこそ百八煩悩が、夏雲のようわき上がってくるという。(中略)要するに、こういったいやなことが、たとえば ”お腹すいた” というそれだけの引き金でもって私どもの頭のなかにムクムクとわき起こってくるというのです。 もちろん、これだけではありません。その時の体調しだいで、今度はありもしないことが、頭ではわかっていながら、どうしようもなく気になりだす。自分は無能力者であるとか、相手を傷つけてしまったとか、これは不治の病であるとか…。 専門用語で貧困妄想・罪責妄想・心気妄想などと呼ばれていますが、だいたい陰にこもってきますとだれでもこんなものですね…。 私どもの人生というのは、いってしまえば、この煩悩・妄想との明日なき闘い、といっても言い過ぎではない。振り払ってもハエのようにまつわり付いてくる。もう考えまい、と心に決めた、その下から同じことを考えている。あの堂々めぐりというものですが、こうした厄介きわまりない出来事が、そうした「無明」を縁として起こってくるというわけです。*…この無明とは内臓感受にとって好ましからざる状態をいう (『内臓とこころ』より)

 

この身体が不快であること、が縁となって妄想煩悩がある、のは致し方ない、

私たちのからだの構造としてそのようにならざるをえないしくみ、からくりが秘められているからなのだ、とおっしゃっています。

内臓的不快な感覚が、神経回路を通って大脳皮質にたどり着くまでに、混線してどこかで取り違えることで妄想煩悩は起こる。

何しろ私たちの脳の中には、

天文学的な数の回路が、乱麻のごとくはりめぐらされているのだから絶望的な混線が起きるのです、と。

 

赤ちゃんがむずかるのは、おっぱいが足りない時、おしめが汚れた時、眠りが足りない時、とはっきりしているのに、大人と言ったら!

これ、面白いですよね。

 

感情はただ流れ去るだけ。そこにドラマはないのです。

伊東先生がよくおっしゃる、先っぽの現象ではなく根っこをみなさい、というところですね。

同じパターンのいやなことがやって来たら、現象のアレコレを見るのではなく、

ささやかなイライラやトゲトゲの気分にただ気づいていること。

感情は「わたし」ではないから、それをただ見て気づいているだけ。

 

広告