入口に立つということ

bubble

何か知ろうとして勉強を始め、ある程度までいくとちょこっとわかったつもりになるのですが、

少しするとあれれ?とまだ何も知らないことがわかってまたやり直し、の繰り返し。

いつも入口に立っている気分になります。

たとえばあるメソッドがあって、今日はここまでで次回はここから、

そして10回出席するとだいたいここまで学習して知識が得られます、

というようなやり方はなんとなく先が見えて安心だし、私たちは慣れてもいるのですが、

そういうやり方では得られない智慧や体験があります。

 

修行とか努力というと、道は遠く険しく大変な感じがして腰が引けますが、

本当は自分が真剣に求めていることや大好きなことならばちょっとくらい自然にがんばるものです。

修行なんてことばに惑わされても仕方ない。

がんばらなくていいよ、という優しく甘い言葉を鵜呑みにしても仕方ない。

その微妙な案配は、実は全部、自分自身が知っています。

 

まだ足らぬ 踊り踊りてあの世まで

 

とは、六代目菊五郎の辞世の句だとか。

どんな芸術家もまだ足りないまだ足りないと努力をしたのですね。

 

利休は、

 

茶の湯とはただ湯をわかし茶をたてて のむばかりなるものとこそ知れ

 

と詠ったそうですが、知識だけでは終わらずその奥義までいった上でそれを捨て、

もとの素人になってそのままでよろしい、ということ、

何もかもわかって、そのわかったことを忘れ、時には間違うようなのが本当のお茶人だ、

ということだそうです。

 

入口と言うけれど、入口は瞬間のように表も裏も全てがあって奥が深いものかも。

 

 

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