観察と観照

なんだかんだと、毎回のように思考について書いています。

何故なら、

それほど私達はドップリと思考に同化(=それが私であると思い込んでいる)しているからです。

 

 

「思考は私そのものではない」と知ったり、気付いたりしていても、

面白いくらい私達はあっという間に思考にはまってしまいます。

 

以前、青空と雲のお話をしましたが、

自分の中の様々な思考や感情をニュートラルに青空から眺めているつもりになっていても、

実はそうではないことが多いのです。

 

人生のあらゆる状況の中で、なにか問題や気に掛かる事が起こると、

私達はその事がきっかけで巻き起こる思考と感情を観察しているつもりになっていても、

実はそこには微かなジャッジがあるのです。

それは何かが起きた時にいつでもそれを見張っている私、

 

「なんとかしようとする私」です。

 

観察は、ほとんどこの「なんとかしようとする私」がやっています。

 

ですから、思考や感情を客観的に見ているつもりになっていても、

あっという間に巻き込まれてしまうのです。

なんとかしようとして目が離せないのですから。(笑)

 

青空は雲の事をなんとかしようとなど思っていません。

 

これが、「無為の内にとどまる」ということです。

 

観察をただ観察しているもの(禅では「観照全托」といいます)こそが、

皆さんの内面に広がっている青空です。

 

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